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川喜田壮太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年明治37年)8月19日 - 1972年昭和47年)9月27日)は、日本銀行家文化人。元百五銀行頭取会長、父は川喜田半泥子

略歴・人物

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三重県津市に、旧家川喜田家の長男として生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行する。1936年(昭和11年)に百五銀行に移り、1951年(昭和26年)に同行頭取に就任する、のち会長。また、菱川合資代表、相互商事社長、東海製鉄役員などを務めた。

三重経済界のトップとして、戦中・戦後を乗り切る。また、半泥子が設立した石水会館を石水博物館に発展させ、地域の文化振興に貢献する[1]。アマチュア映画作家としても知られ、そのフィルムは東京国立近代美術館フィルムセンターへ寄贈されている[2]

著書

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  • 『南洋の旅 写真と日記』(1940)
  • 『ソ連とイランの画信』(丸善、1965)
  • 『紙つぶて』(東亜印刷、1967)
  • 『随想』(別所書店、1969)

親族

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父は陶芸家としても著名な実業家川喜田半泥子(川喜田久太夫)[3]実弟はKJ法を作り出した文化人類学者川喜田二郎[要出典]、岳父は日本銀行理事・三和銀行初代頭取の中根貞彦[3]

参考資料

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脚注

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  1. ^ 川喜多家ゆかりの地で一新 石水博物館 津・千歳山に移転
  2. ^ フィルムセンター - 発掘された映画たち2010
  3. ^ a b 川喜田久太夫『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』 (人事興信所, 1941)

外部リンク

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