川原凡
川原 凡(かわはら の おおし、生没年不詳)は、奈良時代の人物。姓は史[1]のち蔵人、連[2]。官位は外従五位下・紫微大疏。
出自
[編集]河原(川原)の氏の名称は、河内国丹比郡丹比村大字河原城(現在の大阪府羽曳野市河原城)の地名に基づくものと思われ、『新撰姓氏録』「河内国諸蕃」によると、「河原連」は「広階連同祖」とあり、同じく「河内国諸蕃」には「河原蔵人」は「上村主同祖」とあり、ともに、「陳思王植之後也」となっている。神亀2年(725年)、河内国丹比郡の人である河原椋人(かわちのくらひと)子虫ら46人に川原史という氏姓を与えた、という記事がある[3]。
経歴
[編集]天平10年(738年)頃の官人歴名に西史生、膳司大初位上と見える[1]。
その後、光明皇后に仕えたことが史料に散見している。天平17年(745年)4月、従八位下・中宮職少属として同職解に署している。ただし「仮」とも記されている[4]、翌18年(746年)3月、従七位下・皇后宮職少属として同職牒に署している[5][6][7]。同年閏9月、その宣により造東大寺司は内裏に請経している[8]。同19年(747年)正月にも少属、従七位下とあり[9]、またその宣により造東大寺司は北大臣家に法華経を請経している[10]。天平勝宝4年(752年)7月、紫微大疏・従六位下として、紫微中台牒に署し[11]、同8歳(756年)4月も紫微大疏・正六位上として、紫微中台牒に署している[12]。以上の史料には、最初の官人歴名を除くと、蔵人という姓を名乗っている。
天平勝宝9歳(757年)聖武上皇の一周忌に、同9歳(757年)5月、食三田次・益田縄手・大蔵家主・土師犬養・土師弟勝・上毛野真人とともに外従五位下に昇叙している。この時は連姓である[2]。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による
- 天平10年(738年)頃:見西史生・膳司・大初位上(『大日本古文書』による)
- 時期不詳:史から蔵人に改姓
- 天平17年(745年)4月:見従八位下・中宮職少属(『大日本古文書』による)
- 天平18年(746年)3月:見従七位下・皇后宮職少属(『大日本古文書』などによる)
- 天平19年(747年)正月:見従七位下・皇后宮職少属(『大日本古文書』による)
- 天平勝宝4年(752年)7月:見従六位下・紫微大疏(『大日本古文書』による)
- 天平勝宝8歳(756年)4月:正六位上・紫微大疏(『大日本古文書』による)
- 時期不詳:蔵人から連に改姓
- 天平勝宝9歳(757年)5月20日:外従五位下