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川勝広品

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広品
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦10年(1760年
死没 寛政3年2月29日1791年4月2日
別名 隼人、縫殿助(通称)
戒名 廣品(法名)
墓所 東京都港区東麻布の瑠璃光寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 川勝氏
父母 父:内田正良、母:伊東長丘の娘
養父:川勝広長
兄弟 内田正純馬場正賀広品
依田堯道、女子(夏目為毅室)
正室:川勝広長の養女(牛込勝音の娘)
広致(婿養子。妻木頼栄の六男)、
女子(広致室)、女子(植村泰邦室)
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川勝 広品(かわかつ ひろただ)は、江戸時代中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の8代当主。

生涯

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宝暦10年(1760年)、下総小見川藩の藩主内田正良の三男として江戸に生まれ、後に川勝広長の婿養子となった。天明元年(1781年)8月6日、初めて将軍徳川家治に謁見した。

寛政2年(1790年)11月8日、義父広長の隠居により、その家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、小普請となったが、寛政3年(1791年)2月29日、32歳で没した。法名は廣品。墓所は(東京)飯倉の瑠璃光寺。

わずか数ヶ月間の当主であった。無役のままで生涯を終えた。家督は婿養子の広致が継いだ。


参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年


先代
広長
川勝継氏系秀氏流(本家)
8代:1790年 - 1791年
次代
広致