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島田重次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島田重次
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文14年(1545年
死没 寛永14年9月17日1637年11月3日
別名 次郎兵衛、次兵衛、治兵衛(仮名)、伊伯(法名、以栢とも記される)
墓所 埼玉県坂戸市永源寺
主君 徳川家康秀忠
氏族 清和源氏頼光流土岐氏庶流島田氏
父母 父:島田利秀、母:土屋重信(重俊)の娘
多田慶忠の娘
春世成重直時利氏[1]利正、重員
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島田 重次(しまだ しげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の旗本

人物

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三河国矢作庄の国人島田利秀の子。はじめ徳川家康に仕え、のち徳川秀忠の旗奉行・代官となった。

家系

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島田氏美濃守護の一族であった土岐満貞の後裔と称した。三河国設楽郡島田庄(現在の愛知県新城市大字愛郷島田)に住居して以来、「島田」を称したという[2]。最初に島田の地に住した一族は衰退するが、島田氏の名跡は他の土岐氏一族により継がれ、特に土岐光忠(月海太郎とも、土岐頼忠の子)の子の定忠とその子の定俊(矢作太郎)の系統と称した一族は三河国碧海郡矢作庄(現在の愛知県岡崎市南西部矢作川付近)にて、一定の勢力を得ていた。

生涯

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重次の祖父にあたる十兵衛の代に、勢力を拡大した松平広忠の家臣となった。父の島田右京亮利秀も同じく広忠とその子の松平家康(徳川家康)の使番として仕え、三方ヶ原の戦いでは浜松城の留守居役を務めた[3]。重次もまた父と同じく松平氏に仕え、御使番として鉄砲足軽二十名を預けられ、加えてさらに三十名を加えられた。のち秀忠に附けられ、大坂の陣の際は旗奉行に任ぜられた。

遠江国にて二千石を得ていたが、のち徳川家の関東入府後は武蔵国入間郡坂戸に所領を与えられ、五男の利正らと共に代官としての活動が史料に見られる。関東郡代の伊奈忠次に属して関東総検地を実施した。その他にも干害対策のために上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)に雄蛇ヶ池という溜め池を造る指揮を取るなど活躍した。

奥州の大名相馬義胤とは旧縁があったらしく、義胤と利胤(当時は密胤)親子らによる関ヶ原の合戦後の相馬家存続運動に関係し、利胤を本多正信に紹介している。

文禄元年(1592年)、所領の坂戸に菩提寺として長溪山永源寺を建立した。


寛永14年(1637年)、隠居先の坂戸にて、93歳で死去した[4][5]

長男の春世が寛永11年11月11日に重次に先立って死去しており、春世に男子がおらず、また次男らはそれぞれ取り立てられ別家を興していたため[6]、五男の利正が重次の所領を引き継いだ。

脚注

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  1. ^ 旗本御使番5百石。孫の重頼が大坂町奉行などを勤め、子孫は1千8百石。
  2. ^ 実際は美濃国多芸郡島田郷(現在の岐阜県養老郡養老町島田)を本貫とするのが有力という。
  3. ^ 小菅廉; 伊東孝之助; 笠原保久 編『尾参宝鑑』片野東壁堂、1897年10月10日、259頁。NDLJP:765264/148 
  4. ^ 『寛政重脩諸家譜 第2輯』國民圖書、1923年4月29日、552頁。NDLJP:1082719/286 
  5. ^ 『寛政重修諸家譜 巻第289』。NDLJP:2577361/6 
  6. ^ さらに、次男三男四男もこの長命の父より先立っており、それぞれ次世代となっていた。

外部リンク

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