岩田信
岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日[1])- 1910年(明治43年)9月4日[1][2][3])は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。幼名・信二郎[1]。号・吉甫[1]。
経歴
[編集]丹波国加佐郡大俣村[1](京都府[2]加佐郡岡田上村[3]字大俣[1]、加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる[1]。草場船山に師事し漢学を修めた[1]。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた[1]。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業[1]。司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた[1][2][3]。
1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した[1]。京都弁護士会長、日本赤十字社正社員、相互生命保険合資会社賛助員、破産管財人なども務めた[1][2][3]。
1903年(明治36年)3月、補欠選挙で京都市会議員に選出され、1907年(明治40年)4月まで在任した[1][2][3]。1903年9月、京都府会議員となり1904年(明治37年)8月まで在任し、参事会員も務めた[1][2][3]。
1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(京都府京都市)で落選[1]したが、1908年(明治41年)5月の第10回総選挙(京都府郡部、立憲政友会)で当選を果たした[4]。東京日本橋箱崎町4丁目に事務所を構え[1]、政友会政務調査委員、衆議院予算委員、同請願委員などを務めたが[1]、病を得て療養に努めた[1]。1期目[2][3]の議員在任中、1910年9月に東京市本郷区丸山新町の自宅で糖尿病により死去した[1][5]。
親族
[編集]- 長兄 岩田誼太郎(京都府会議員)[1]