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岡野成恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡野 成恒(おかの なりつね、慶長16年(1611年) - 元禄5年(1692年))は、江戸時代中期の旗本。旗本岡野氏の子孫。通称、長十郎。従五位下岡野房恒の次男[1][2]。岡野長十郎家初代当主[1]

経歴

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はじめ岡野房恒の次男として生まれる[1][2]

寛永4年(1627年)11月に徳川家光御目見を果たす。同5年(1628年)12月、書院番となり、蔵米150俵を賜る。その後、小姓組に移る[1]。同10年(1633年)2月7日、200石を加増、蔵米を改められる[1]。同年12月20日、中奥の警備にあたる[1]。同12年(1635年)9月3日より奥勤めとなる。同16年(1639年)12月28日、進物役となる[1]

万治元年(1658年)9月1日、御徒頭となる。同年閏12月25日、300俵を加増される[1]。同月28日、布衣の着用を許される[1]

寛文7年(1667年)2月14日、駿府町奉行に移り、300俵を加えられ350石・600俵となる[1]。同10年(1670年)6月10日、徳川綱重付の家老となり、甲斐国中郡・信濃国佐久郡に3000石を知行した際、これまでの350石・600俵は、養子成旭に与えられる[1][3]。同年12月28日、従五位下美作守となり、後に隠居する[1]

元禄5年(1692年)11月23日、82歳で亡くなる[1]。法名は宗弓。武蔵国都筑郡長津田村の大林寺に葬られる[1]

母は糟谷豊後守某の娘[1]。妻は美濃国大垣藩松平家家臣金田房能の娘[1]。なお、養子に成旭を迎えている[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 寛政重修諸家譜』第3輯 国民図書、706頁。
  2. ^ a b 大津雄一・矢代和夫『北条五代記(日本合戦騒動叢書13)』勉誠社勉誠出版〉、1991年5月1日、20頁-23頁。
  3. ^ 小川恭一『江戸の旗本辞典』KADOKAWA/角川学芸出版、〈角川ソフィア文庫〉、2016年1月23日[要ページ番号]

出典

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