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岡田重一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡田 重一(おかだ じゅういち[1] / しげかず[2]1898年明治31年)6月16日[1][3] - 1982年昭和57年)4月12日[1][3])は日本の陸軍軍人。最終階級は少将

経歴

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高知県出身[1][3][4]陸軍中将岡田重久陸軍士官学校4期)の長男として生まれる[1]大阪陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校31期)を卒業[1][3][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊附となる[1][5]1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校41期)を卒業した[1][3][4]

以後、陸軍省軍務局課員、参謀本部員、陸大教官、参謀本部員兼軍令部員などを経て、1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀充用となり日中戦争に出征[1][3][4]関東軍参謀を経て、1939年(昭和14年)3月、参謀本部庶務課長に就任し、同年8月、歩兵大佐に昇進[1][4]。同年10月、参謀本部作戦課長(第1部第2課長)に就任[1][4]。以後、歩兵第78連隊長、陸軍省人事局補任課長を務め、1943年(昭和18年)8月、少将に昇進[1][3][4]。以後、人事局長、北支那方面軍参謀副長、支那派遣軍総参謀副長を務めて終戦を迎えた[1][3][4]1946年(昭和21年)5月に復員した[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

1982年(昭和57年)4月、肺炎のため東京医科歯科大学医学部附属病院で死去した[2]。墓所は多磨霊園

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、40頁。
  2. ^ a b 『現代物故者事典 1980〜1982』67頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』167頁。
  4. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』429-430頁。
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』428-430頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。