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山田隆也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田隆弥から転送)
やまだ たかや
山田 隆也
山田 隆也
1920年の写真、満30歳。
本名 横川 唯治(よこかわ ただはる)
別名義 山田 隆彌(やまだ たかや)
生年月日 (1890-07-31) 1890年7月31日
没年月日 (1978-06-08) 1978年6月8日(87歳没)
出生地 日本の旗 日本 埼玉県比企郡唐子村(現在の同県東松山市
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市山科区
職業俳優宗教家
ジャンル 新劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画
活動期間 1911年 - 1978年
主な作品
舞台
出家とその弟子
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山田 隆也(やまだ たかや、1890年7月31日 - 1978年6月8日)は、日本の元俳優宗教家である。本名横川 唯治(よこかわ ただはる)。旧芸名山田 隆彌(やまだ たかや)。

人物・来歴

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1890年(明治23年)7月31日埼玉県比企郡唐子村(現在の同県東松山市)に生まれる。生家は庄屋を経営していたが、没落して里子に預けられる。

旧制埼玉県第三中学校(後の埼玉県立川越中学校、現在の埼玉県立川越高等学校)を卒業後、弁護士を志望して中央大学法科に進学するが、のちに早稲田大学文科に転入。1905年(明治38年)5月、坪内逍遥の自宅に設立された文芸協会演劇研究所に、同年4月に入所した松井須磨子佐々木積武田正憲に加えて、補欠募集で上山草人加藤精一森英治郎らと入所し、同所の第1期研究生となる。1911年(明治44年)5月に同所を卒業し、本名の「横川 唯治」を名乗って文芸協会に加入、帝国劇場での同協会第1回公演として、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』(訳坪内逍遙)の全幕上演が行なわれ、横川はギルデンスターン役を演じた。ところが、1913年(大正2年)5月31日に同協会を島村抱月が退会、松井須磨子も諭旨退会処分で去って同年7月には解散。同年10月、森英治郎、佐々木積、加藤精一らと新劇団舞台協会を設立し、同年11月28日から4日間、同じく帝国劇場での同協会第一回公演として、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『悪魔の弟子英語版』(訳舞台協会)、ヴィルヘルム・フォン・ショルツドイツ語版の戯曲『負けたる人』(訳森鷗外Der Besiegte, 1899年)を上演した[1]。1918年(大正7年)には、加藤精一、森英治郎、佐々木積、林幹宮島啓夫らと帝国劇場専属俳優となったが、中でも1921年(大正10年)11月、同劇場で上演された倉田百三の戯曲『出家とその弟子』で、横川が演じた唯円役は当たり役となり、以後主要都市の各座で上演されるようになり、この間に芸名を本名から「山田 隆彌」と改名した。

1922年(大正11年)、かつて日活向島撮影所の幹部俳優であった衣笠貞之助藤野秀夫東猛夫横山運平ら13名が連袂退社したことから、日活の呼びかけで舞台協会と急遽提携入社をなし、1923年(大正12年)3月15日に公開された同協会提携第一回作品である田中栄三監督映画『髑髏の舞』など、数本の作品に出演[2][3]。ところが、同所は同年9月1日に発生した関東大震災で強制閉鎖となり、日活京都撮影所に全面異動となったが、横川は移籍せずに加藤精一、佐々木積、森英治郎、岡田嘉子出雲美樹子夏川静江らと新たに同志座を組織する。1925年(大正14年)6月、兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所と提携入社、同年同月25日に公開された阪田重則監督映画『敵と女敵』などに出演し、同座解散後も同所に残留した。

1927年(昭和2年)1月、愛人であり妻であった岡田嘉子は『椿姫』の撮影中、衝動的に俳優の竹内良一とともに失踪。山田の手元には岡田から許しを請う別れの手紙が届いた[4]

1928年(昭和3年)には、牧野省三率いるマキノ・プロダクションにおいて、牧野の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が所長を務める名古屋撮影所で、鈴木重吉監督の『田中宰相の少年時代』に出演[3]、同年、同社の御室撮影所が製作した『肉弾決笑記』で初監督を果たす[3]

松竹家庭劇に参加する。1936年(昭和11年)、京都の宗教団体である一燈園の劇団「すわらじ劇園」に参加する。

1978年(昭和53年)6月8日、死去した。満87歳没。

フィルモグラフィ

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特筆以外はすべて出演、すべて「山田隆弥」名義。

日活向島撮影所

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1923年

東亜キネマ甲陽撮影所

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1925年

東京映画

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1927年 [5]

マキノ・プロダクション

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1928年

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館蔵書[6]

  • 『陽は暖かく』、一燈園出版部、1960年
  • 『こぼれ話』、一燈園出版部、1965年
  • 『内村鑑三記念講演研究』、編著藤田若雄、大河原礼三・キリスト教社会思想研究会、1973年 - 1975年
    • 『金沢常雄』『塚本虎二』『黒崎幸吉』『座談会「無教会を語る」』を収録
  • 『陽は暖かく』、一燈園出版部、1984年

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  1. ^ 第三章 演劇の目覚めと展開、近代日本の道程、竹中一男、2010年1月5日閲覧。
  2. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.363-366.
  3. ^ a b c 山田隆弥、日本映画データベース、2010年1月5日閲覧。
  4. ^ 撮影中途で行方くらます、日活が激怒『中外商業新報』昭和2年3月30日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p35昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 戦後の東京映画とは無関係。
  6. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2010年1月5日閲覧。

外部リンク

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