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山田英夫 (伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田英夫

山田 英夫(やまだ ひでお、1875年明治8年)10月21日[1] - 1945年昭和20年)5月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人政治家華族。最終階級は陸軍歩兵中佐貴族院伯爵議員。旧姓・松平[1]

経歴

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東京府で元会津藩主・松平容保の三男として生まれ、伯爵・山田繁栄(山田顕義の弟)の養子となる[1][3]。養父の死去に伴い1906年(明治39年)4月12日、伯爵を襲爵した[1][3][4]

陸軍士官学校(8期)に入り[5]1896年(明治29年)11月26日に卒業し[6]1897年(明治30年)6月28日、歩兵少尉に任官[2][7]日露戦争では第3軍監理部副官として出征[3]。以後、歩兵第3連隊中隊長、軍事参議官副官(乃木希典陸軍大将附)、陸軍省軍務局課員、歩兵第67連隊大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長などを歴任[2][3]1916年(大正5年)11月15日、歩兵中佐に昇進し[7]1919年(大正8年)予備役に編入された[2]

1935年(昭和10年)4月19日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し[8][9]研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで1期在任した[2]

栄典

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位階
勲章

親族

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  • 母 田代佐久
  • 先妻 山田梅子(山田顕義の長女、山田繁栄の姪)[1]
    • 長女 薩摩千代子(薩摩治郎八の妻)[1]
    • 長男 山田顕貞(伯爵・日本大学法学部教授)[1]
    • 二男 山田貞夫(陸軍大尉、戦死)[1][注 1]
  • 後妻 山田宣子(ふさこ、柳沢光邦の四女)[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ インパール作戦に従軍し戦死。高木俊朗によると、その死は花谷正に自決を強要されたものであった。高木俊朗『戦死 インパール牽制作戦』文春文庫、1984年、284-295頁。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成 下巻』796頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』31頁。
  3. ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』ヤ117頁。
  4. ^ 『官報』第6833号、明治39年4月13日。
  5. ^ 『陸軍士官学校』231頁。
  6. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』132頁。
  7. ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正6年9月1日調』125頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
  9. ^ 『官報』第2487号、昭和10年4月20日。
  10. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。※松平英夫
  11. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。※松平英夫
  12. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  13. ^ 『官報』第1346号「叙任及辞令」1917年1月30日。

参考文献

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  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正6年9月1日調』陸軍省、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。


爵位・家督
先代
山田繁栄
伯爵
山田(顕義)家第4代
1906年 - 1945年
次代
山田顕貞