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山田弘喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 弘喜
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府東大阪市
生年月日 (1989-03-23) 1989年3月23日(35歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2006年 高校生ドラフト4巡目
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

山田 弘喜(やまだ ひろき、1989年3月23日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

来歴・人物

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アマチュア時代

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小学校4年生の時、少年野球チームジュニアコンドルズで外野手として野球を始める。

地元の東大阪市立高井田中学校に進学。軟式野球部に所属し、投手に転向。

自宅から近い、手に職をつけたいという理由で、大阪府立城東工業高等学校に進学。野球部に入ったのは、たまたま進学先にあったからという。1年生の秋から背番号18でベンチ入り。

2006年夏、地区予選1回戦ながら、対福泉高校との試合で準完全試合(8回コールドの参考記録)を達成。コールドにつながる打点は、自らのバットによるもの。この時の福泉のエースは宮田和希であった。
4回戦の池島高校との試合で、17奪三振を記録している。5回戦で金光大阪(準優勝)との対戦で敗れ、甲子園出場はならなかった。

2006年のドラフト会議東京ヤクルトスワローズに4巡目で指名され入団した。平成生まれで東京ヤクルトスワローズに入団した最初の選手である。

プロ入り後

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2007年の自主トレでは早速故障発生。本人は「投げられる」と強がったものの、キャンプではあまりの体力の無さから、伊藤智仁コーチから無期限の投球禁止令を出された。その後練習には復帰したが、1年目は二軍公式戦では登板できなかった。

3年目の2009年秋季キャンプでは初めて一軍メンバー入りしたものの[1]2010年10月3日、球団から戦力外通告を受け、現役4年間で一軍登板はなかった。

現役引退後

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大阪府で働いており、2020年冬の取材では「今はヤクルトの時より、給料良いんで、まぁ、楽しくやっています」と現況について語っている[2]

プレースタイル

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高校時代は最速145km/hの速球としなやかな腕の振りが魅力だった。また、自身が漫画を読み考案した魔球ダイナマイトスライダーが武器。ダイナマイトスライダーとは、投げる瞬間に人差し指をナックルボールのように立てるもので、縦に変化したり、横に変化したり、山田本人もどう変化するかわからないらしい。

もしプロに指名されなかったら野球を辞めると話していた。プロ入り時、誰も希望しないという理由で背番号42を希望していた。紫のジャージで入寮しようとしたが、母親に止められ、結局黒のスウェットに極太の金ネックレスカチューシャというファッションで入寮し、注目を浴びる。ZETTにオーダーして作った練習用グローブには「夜魔陀火露鬼」という当て字が刺繍されていた[3]

詳細情報

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年度別投手成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 66(2007年 - 2010年)

脚注

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  1. ^ 氏原英明 (2020年12月7日). “戦力外通告のウラ側「兄に電話して泣きました」 ドラ1、ハンカチ世代…3人のプロ野球選手が語る“クビの瞬間””. Number Web: p. 1. https://number.bunshun.jp/articles/-/846112 2022年7月5日閲覧。 
  2. ^ 氏原英明 (2020年12月7日). “戦力外通告のウラ側「兄に電話して泣きました」 ドラ1、ハンカチ世代…3人のプロ野球選手が語る“クビの瞬間””. Number Web: p. 2. https://number.bunshun.jp/articles/-/846112?page=2 2022年7月5日閲覧。 
  3. ^ 出典:日刊ゲンダイ 2007年3月2日

関連項目

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外部リンク

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