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山田保永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山田 保永(やまだ やすなが、1850年9月13日嘉永3年8月8日) - 1932年(昭和7年)12月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位勲二等功三級[1]

経歴

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紀伊国出身。山田甚五右衛門の長男として生まれる。明治4年12月(1872年)、召集兵として陸軍に入り少尉心得に任官し大坂鎮台付となる。明治5年(1872年)3月、陸軍少尉に昇進。1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。1883年(明治16年)6月、歩兵少佐に進級し歩兵第12連隊大隊長に就任。1885年(明治18年)5月、参謀本部管東局員となり、参謀本部第2局員、歩兵第1連隊大隊長、第4師団副官陸軍省軍務局第2軍事課長を歴任。1892年(明治25年)9月、歩兵中佐に昇進。同年11月、陸軍省副官に移るが、1893年(明治26年)8月、休職した。

1893年9月、歩兵第2連隊長として復帰。1894年(明治27年)9月、二度目の第2軍事課長となる。同年10月、第2軍副官に発令され日清戦争1895年(明治28年)5月まで出征。この間、1895年1月、歩兵大佐に進級。1899年(明治32年)3月、近衛歩兵第4連隊長に就任。

1900年(明治33年)3月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長を命ぜられる。1902年(明治35年)2月、台湾守備混成第3旅団長に転ずる。1904年(明治37年)4月、歩兵第9旅団長に異動し1904年(明治37年)11月まで日露戦争に出征。沙河会戦まで参戦。この間、1904年7月に休職、同年10月、留守歩兵第12旅団長となる。

1905年(明治38年)4月、第13師団兵站監に就任。同年7月、樺太に出征。同年9月、樺太守備隊司令官に着任。1906年(明治39年)7月6日、陸軍中将に進級と同時に予備役編入[2]1908年(明治41年)4月1日、後備役となる[3]1913年大正2年)4月1日に退役した[4]

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ 『陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿』(明治44年7月1日調査) 426コマに記載
  2. ^ 『官報』第6906号、明治39年7月7日。
  3. ^ 『官報』第7447号、明治41年4月27日。
  4. ^ 『官報』第200号、大正2年4月2日。
  5. ^ 『官報』第47号「叙任」1883年8月24日。
  6. ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。
  7. ^ 『官報』第5081号「叙任及辞令」1900年6月12日
  8. ^ 『官報』第6610号「叙任及辞令」1905年7月13日。
  9. ^ 『官報』第6995号「叙任及辞令」1906年10月22日。
  10. ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  11. ^ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。
  12. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  13. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  14. ^ 『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
  15. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。