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山本弦堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本 弦堂(やまもと げんどう、文政6年6月8日1823年7月15日) - 明治6年(1873年7月19日)は幕末の医者、儒学者本草学者。字は秀夫、通称は秀五郎、名は実慶、別号は帰読軒。山本亡羊三男。京都で医業を営んだ後、典薬寮大学寮太政官に出仕した。

生涯

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文政6年(1823年)6月8日本草学者山本亡羊の三男として生まれた[1]。18歳で十三経二十一史を修了した後、亡羊の友人摩島松南に詩文、書法を学び、楷書、篆刻を得意とした[1]

天保15年(1844年)8月9日から15日まで百々三郎近江国伊香郡中河内(長浜市余呉町)へ採薬し、採薬紀行を記した[2]

安政3年(1856年)8月父の命で東中筋通に分家し、儒医を業としたが、安政6年(1859年)父亡羊、元治元年(1864年)兄榕室が死去したため、油小路通五条上ルの山本読書室に戻り、榕室の子復一を後見した[1]

慶応3年(1867年)9月14日関白二条斉敬により典薬寮官人に命じられ、明治元年(1868年)閏4月7日大学寮講師に転じた[1]。明治2年(1869年)西園寺公望が設立した私塾立命館に賓師として招かれたが、翌年廃校となった[3]

明治4年(1871年)6月東京に移り、太政官権少を務め、修史館に兼務し、明治6年(1873年)7月19日病没した[1]

著書

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  • 弦堂日記 安政3年(1856年)8月16日 - 明治2年(1869年)3月5日[4]
  • 弦堂日抄[5]
  • 帰読軒日抄[6]
  • 医事鈔[7]
  • 中河内採薬記行 天保15年(1844年)8月9日 - 8月15日[2]
  • 山城草木記[1]
  • 詞林咀華[8]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 中島 1909, pp. 43–44.
  2. ^ a b 西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース”. 西尾市岩瀬文庫. 2016年1月6日閲覧。
  3. ^ 「今日は何の日」9月 私塾立命館の創設”. 立命館大学 (2013年9月3日). 2016年1月6日閲覧。
  4. ^ 松田 2014, p. 39.
  5. ^ 松田 2014, pp. 84, 111.
  6. ^ 松田 2014, p. 111.
  7. ^ 松田 2014, p. 332.
  8. ^ 松田 2014, p. 43.
  9. ^ 中島 1909, p. 39.
  10. ^ a b 松田 2014, p. 243.
  11. ^ a b 中島 1909, p. 40.
  12. ^ 中島 1909, p. 44.
  13. ^ 中島 1909, p. 48.
  14. ^ 中島 1909, p. 49.
  15. ^ 中島 1909, p. 4.
  16. ^ a b 松田 2014, p. 244.

参考文献

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外部リンク

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