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山本渓愚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本渓愚(山本章夫)
高弟真下正太郎編『渓愚山本章夫先生小伝』の口絵。
人物情報
別名 通称:藤十郎、字:章夫、名:維慶、号:渓愚 別号:渓山、海紅亭、対竹斎
生誕 山本正九郎
文政10年1月9日1827年2月4日
京都油小路通五条上ル上金仏町
死没 明治36年(1903年10月27日
京都市下京区油小路通五条上ル上金仏町28番戸
腸内不利
国籍 日本の旗 日本
配偶者 大浦菊、小森氏
両親 山本亡羊、玲子
子供 山本規矩三
学問
時代 幕末明治
主要な作品 本草写生図譜
影響を受けた人物 山本亡羊森徹山蒲生竹山
影響を与えた人物 木島桜谷久邇宮邦彦王
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山本 渓愚[1](やまもと けいぐ、文政10年1月9日1827年2月4日) - 明治36年(1903年10月27日)は幕末明治儒学者本草学者博物画家

「渓愚」はから山本 章夫(やまもと あやお)とも呼ばれる[2]

京都の本草学者山本亡羊の子。明治初年駅逓司、博覧会事務局等に関わったが、次兄山本秀夫没後、山本読書室を受け継ぎ、聚芳社を創立した。また、久邇宮家、本圀寺京都市美術学校等で漢学・道徳を教え、賛育学社で漢方存続運動を指導した。

生涯

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修学

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文政10年(1827年)1月9日京都油小路通五条上ル上金仏町に生まれた[3]。山本家の下、6歳で漢詩を始め、9歳で四書を暗誦し、12歳で四書五経に通じた[3]。15歳で森徹山蒲生竹山に絵画を学んだ[3]

西国各地へ採薬旅行に赴き、嘉永4年(1851年)には北越地方[4]文久2年(1862年)には周防国まで足を伸ばしている[5]

政府出仕

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明治元年(1868年)3月太政官により内国事務局書記を命じられ、4月会計官駅逓司、5月駅逓司判事、次いで知事試補となるも、7月判事に戻り、9月判事頭取に就任した[6]。明治2年(1869年)2月8日聖上御車幸御用掛となり、3月7日明治天皇に従い東京に渡った[6]。5月19日駅逓司を辞職し、6月20日京都に帰った[7]

明治5年(1872年)3月博覧会事務局に出仕し、4月東京に戻り[7]ウィーン万国博覧会事務に携わり[8]、明治6年(1873年)11月辞職し、京都に帰った[7]

明治8年(1875年)10月京都博物館御用掛[8]、明治18年(1885年)3月京都博覧会特別品評部長を務めた[9]

本草会活動

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文久元年(1861年)8月1日から海紅亭と号して物産会を行った[10]。明治7年(1874年)5月10日松原通不明門の大火で本家読書室が焼失すると、明治8年(1875年)2月新居を建て、明治9年(1876年)10月10日本草会を引継ぎ、以降毎月15日に開いた[7]

明治20年(1887年)11月聚芳社を創立し[11]、後に博物会と改称された[12]

教育活動

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明治13年(1880年)1月23日久邇宮朝彦親王により彦宮(久邇宮邦彦王)侍講を任され、明治23年(1890年)3月成城学校入学まで書画、漢籍、経史を教えた[13]。その後多嘉王、女王7名、厳宮(賀陽宮邦憲王)、邦憲王妃に教えた[14]。また、明治17年(1884年)生まれた第四王女を命名した[9]

明治13年(1880年)4月から明治29年8月まで本圀寺教主の要請で僧侶に講義を行った[15]。明治14年(1881年)11月賛育学社都講となって漢方医学を教え[9]、明治27年(1894年)5月京都市美術学校講師、7月日本弘道会京都支部名誉講師も歴任した[15]

晩年

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明治32年(1899年)1月杭州の考証学者兪曲園に自著「考訂孝経」「考訂大学」「考訂中庸」の三書を贈り、兪曲園から碩学の士と称えられた[16]。 明治32年(1899年)5月脳卒中で言語渋滞、半身不随となるも、12月平癒した[17]。明治35年(1902年)病のため久邇宮侍講を辞職した[18]。明治36年(1903年)8月頃腸内不利となり、10月26日悪化し、27日払暁死去し[17]紀伊郡深草村宝塔寺に葬られた[19]

著書

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経学等

本草学

詩文

  • 対竹斎詩集[26]
  • 九思堂日記 嘉永2年(1849年) - 安政7年(1860年)[27]
  • 入越日記 嘉永4年(1851年)[24]
  • 記 嘉永6年[24]
  • 海紅亭日録 安政7年(1860年) - 明治15年(1882年)[28]
  • 西游日記 文久2年(1862年) - 明治2年(1869年)[29]
  • 東行日記 明治23年(1890年)[30]
  • 烈夫伝[31]
  • 渓愚随筆 天文地理[32]
  • 渓愚詩草 西遊集[33]

親族

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  • 父:山本亡羊 - 本草学者。
  • 母:玲子 - 華頂宮臣青木如水二女[34]天明8年(1788年)12月13日生、享和2年(1802年)5月25日結婚、嘉永5年(1852年)2月18日没[35]
  • 前妻:菊 - 大浦中務娘[40]安政2年(1855年)5月結婚[5]文久3年(1863年)8月没[6]
    • 長男:条太郎 - 安政4年(1857年)3月生、6月没[5]
    • 次男:継二郎 - 安政5年(1858年)5月生、6月没[5]
    • 長女:石 - 万延元年(1860年)3月生、10月没[5]
  • 後妻:小森氏 - 明治3年(1870年)8月結婚[7]、明治22年(1889年)8月没[11]

脚注

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  1. ^ 山本渓愚』 - コトバンク
  2. ^ 松田 2019.
  3. ^ a b c 真下 1922, p. 1.
  4. ^ 真下 1922, p. 19.
  5. ^ a b c d e 真下 1922, p. 20.
  6. ^ a b c 真下 1922, p. 21.
  7. ^ a b c d e f g h 真下 1922, p. 22.
  8. ^ a b 真下 1922, p. 2.
  9. ^ a b c 真下 1922, p. 23.
  10. ^ 西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース”. 西尾市岩瀬文庫. 2016年1月6日閲覧。
  11. ^ a b c 真下 1922, p. 24.
  12. ^ 真下 1922, p. 10.
  13. ^ 真下 1922, p. 3.
  14. ^ 真下 1922, p. 4.
  15. ^ a b 真下 1922, p. 9.
  16. ^ 松田 2019, p. 91.
  17. ^ a b 真下 1922, p. 26.
  18. ^ 真下 1922, p. 34.
  19. ^ a b 真下 1922, p. 14.
  20. ^ 考訂孝経』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  21. ^ 考訂中庸』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  22. ^ 論語補註 乾』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『論語補註 坤』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  23. ^ 詩経新註 巻之上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『詩経新註 巻之中』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『詩経新註 巻之下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  24. ^ a b c 松田 2014, p. 167.
  25. ^ 松田 2014, p. 96.
  26. ^ 対竹斎詩集』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  27. ^ 松田 2014, p. 108.
  28. ^ 松田 2014, pp. 67, 69, 108.
  29. ^ 松田 2014, p. 109.
  30. ^ 松田 2014, p. 71.
  31. ^ 松田 2014, p. 143.
  32. ^ 松田 2014, p. 331.
  33. ^ 松田 2014, p. 106.
  34. ^ 中島 1909, p. 39.
  35. ^ 松田 2014, p. 243.
  36. ^ 中島 1909, p. 40.
  37. ^ 中島 1909, p. 43.
  38. ^ 中島 1909, p. 48.
  39. ^ 中島 1909, p. 49.
  40. ^ 松田 2014, p. 338.
  41. ^ a b 松田 2014, p. 317.

参考文献

[編集]