山木勝博
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名前 | ||||||
カタカナ | ヤマキ カツヒロ | |||||
ラテン文字 | YAMAKI Katsuhiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1970年4月16日(54歳) | |||||
出身地 | 熊本県 | |||||
身長 | 169cm[1] | |||||
体重 | 61kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1986-1988 | 国見高校 | |||||
1989-1991 | 駒澤大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992 | 住友/鹿島アントラーズ | 5 | (0) | |||
通算 | 5 | (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
山木 勝博(やまき かつひろ、1970年4月16日 - )は熊本県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。
来歴
[編集]長崎県立国見高等学校では1学年上に二宮浩や吉田裕幸、同期に永井秀樹、1学年下に原田武男らがいる[2]。2年時の高校総体では準優勝[2]。冬の高校選手権(第66回)では、決勝の東海大学第一高校戦において決勝点となるボレーシュートを決め、同校の初優勝に貢献した[2][3]。大会後には優秀選手に選ばれ、日本高校選抜の欧州遠征に参加した[2]。3年時の高校選手権(第67回)ではベスト8に終わったが前年に続き優秀選手に選ばれた[2]。
高校卒業後に駒澤大学へ進学したが、その後中退し、1992年に日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団に加入[4]。岡本賢二(元読売クラブ)と共にシーズン途中での加入となった[4]。同年2月26日に行われた1991-92シーズンJSL2部第23節の川崎製鉄戦でデビュー[5]。同年3月8日に行われた25節のNTT関東戦で1アシストを決めるなど5試合に出場した[5]。プロ化により鹿島アントラーズへと移行後もチームに在籍したが[1]、翌1993年のJリーグ開幕前に退団した[6]。
所属クラブ
[編集]- 熊本市立城南中学校
- 長崎県立国見高等学校
- 駒澤大学
- 1992年 住友金属/鹿島アントラーズ
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | 住金 | 22 | JSL2部 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 |
1992 | 鹿島 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
通算 | 日本 | J | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | |
総通算 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 |
脚注
[編集]- ^ a b c 「Jリーグ・カップ登録メンバーリスト」『サッカーマガジン』 1992年10月号、ベースボール・マガジン社、86頁。
- ^ a b c d e 全国高等学校体育連盟サッカー専門部 編『高校サッカー100年』講談社、2019年、178-180,269-270頁。ISBN 978-4-06-220356-2。
- ^ 「国見が初優勝 小嶺監督ゲキ「純白で戦え」白ユニのジンクス吹き飛ばした」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、1988年1月9日。2024年1月25日閲覧。
- ^ a b 「Jリーグフォーラム」『サッカーマガジン』 1992年5月号、ベースボール・マガジン社、128頁。
- ^ a b 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、256頁。
- ^ 「JSL NOW」『ストライカー』 1993年1月7日号、学習研究社、134頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 山木勝博 - Transfermarkt.comによる選手データ