山名義範
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:三郎/太郎 |
官位 | 伊豆守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 清和源氏新田氏流山名氏 |
父母 | 父:源義重[1] |
兄弟 | 里見義俊、義範、新田義兼、得川義季、額戸経義、祥寿姫(源義平正室)、矢田義清室、武田信光室、那須与一室?、得河義秀? |
妻 | 矢田義清の娘 |
子 | 義節(重国の父) |
山名 義範/新田義範(やまな よしのり/にったよしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。
略歴
[編集]新田義重の庶子として誕生。上野国碓氷郡八幡荘の山名郷[2]を与えられ、山名氏を称した。
承安5年/安元元年(1175年)から安元3年/治承元年(1177年)頃には豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。
父・義重は治承4年(1180年)8月に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の下に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された。治承8年(1184年)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。文治元年(1185年)8月には伊豆守に任じられる。文治5年(1189年)7月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)、頼朝の上洛に供奉。建久6年(1195年)の2度目の上洛では東大寺供養の際に頼朝に近侍し、その嫡子・頼家の参内にも従っている。
いち早く頼朝のもとに参陣したのは、早くから足利氏との縁があったためであると伝わる。