山口弘達
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代 |
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生誕 | 万延元年3月23日(1860年4月13日) |
死没 | 昭和7年(1932年)7月18日 |
改名 | 長次郎(幼名)、弘達 |
諡号 | 君道 |
戒名 | 文山薫心石弘達院 |
墓所 | 東京都港区南麻布の曹渓寺 |
官位 |
従五位下、正五位、従五位、従四位、 正四位、従三位、正三位、従二位、周防守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 常陸国牛久藩主 |
氏族 | 山口氏 |
父母 | 父:山口弘敞、母:本多忠升の娘 |
妻 |
土井利善の娘 本庄宗武の娘・須寿 |
子 | 弘徳(長男)、米倉昌達(三男)、重鑑(四男)、重虎(五男)、重秋(六男)ら |
山口 弘達(やまぐち ひろよし)は、常陸牛久藩の第12代(最後)の藩主。のちに子爵。
来歴
[編集]万延元年(1860年)3月23日、第11代藩主山口弘敞の長男として生まれる。文久2年(1862年)8月6日、父が死去したため、わずか3歳で家督を継いだ。慶応4年(1868年)2月20日、幼少のために重臣を上洛させて、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争で藩は新政府に与し、龍ヶ崎や水海道へ出兵する。同年10月5日、上洛する。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事(家禄370石)となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官、11月まで牛久県知事を務めた。
明治5年(1872年)、旧藩の債務のうち2779両を私債として引き受ける。明治17年(1884年)、子爵。以後、学習院の教授を務める。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれ[1]、大正14年(1925年)7月10月まで5期務めた[1]。昭和7年(1932年)7月18日に死去した。享年73。
栄典
[編集]家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (牛久)山口家初代 1884年 - 1932年 |
次代 山口弘行 |