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山口弘達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山口 弘達
時代 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代
生誕 万延元年3月23日1860年4月13日
死没 昭和7年(1932年7月18日
改名 長次郎(幼名)、弘達
諡号 君道
戒名 文山薫心石弘達院
墓所 東京都港区南麻布の曹渓寺
官位 従五位下、正五位、従五位、従四位、
正四位、従三位、正三位従二位周防
幕府 江戸幕府
常陸国牛久藩
氏族 山口氏
父母 父:山口弘敞、母:本多忠升の娘
土井利善の娘
本庄宗武の娘・須寿
弘徳(長男)、米倉昌達(三男)、重鑑(四男)、重虎(五男)、重秋(六男)ら
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山口 弘達(やまぐち ひろよし)は、常陸牛久藩の第12代(最後)の藩主。のちに子爵

来歴

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万延元年(1860年)3月23日、第11代藩主山口弘敞の長男として生まれる。文久2年(1862年)8月6日、父が死去したため、わずか3歳で家督を継いだ。慶応4年(1868年)2月20日、幼少のために重臣を上洛させて、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争で藩は新政府に与し、龍ヶ崎水海道へ出兵する。同年10月5日、上洛する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事(家禄370石)となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官、11月まで牛久県知事を務めた。

明治5年(1872年)、旧藩の債務のうち2779両を私債として引き受ける。明治17年(1884年)、子爵。以後、学習院の教授を務める。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれ[1]、大正14年(1925年)7月10月まで5期務めた[1]。昭和7年(1932年)7月18日に死去した。享年73。

栄典

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家族

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父母

子女

  • 山口弘徳(長男)
  • 米倉昌達(三男)
  • 山口重鑑(四男)
  • 山口重虎(五男)
  • 山口重秋(六男)

脚注

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  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』59頁。
  2. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
牛久山口家初代
1884年 - 1932年
次代
山口弘行