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小藤恵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小藤 恵こふじ めぐみ
生誕 1888年7月25日
大日本帝国 高知県
死没 1943年10月25日
所属組織 大日本帝国陸軍
最終階級 陸軍少将
墓所 青山霊園
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小藤 恵(こふじ さとし[1][注 1]1888年明治21年)7月25日[1][2] - 1943年昭和18年)10月25日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将陸軍中将久納誠一18期)は義兄弟陸軍中佐高木作之45期)は久納の娘婿にあたる。

経歴

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高知県出身[1][2][3]陸軍少佐小藤亨三の長男として生まれる[1]。東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、東京陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1908年(明治41年)5月、陸軍士官学校20期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となった[1][4]1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した[1][2][3]

1920年(大正9年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(チリー出張)、チリー公使館付武官を務め、1923年(大正12年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1925年(大正14年)5月、近衛歩兵第4連隊大隊長に就任し、参謀本部員、兼軍令部参謀(1926年11月-1929年3月)を務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進む[1]。1929年(昭和4年)3月、陸大教官に転じ、1932年(昭和7年)4月、歩兵大佐に昇進[1][3]陸軍省人事局補任課長を経て、1935年(昭和10年)8月、歩兵第1連隊長に就任[1][2][3]二・二六事件により、1936年(昭和11年)3月に待命となり、同年7月、予備役に編入された[1][2][3]

日中戦争勃発により、1937年(昭和12年)9月に召集され第18師団参謀長に発令されて出征[1][2][3]南京戦、広東作戦などに参戦[2]。1938年(昭和13年)12月に召集解除となった[1]。1939年(昭和14年)2月、臨時召集となり参謀本部付(支那事変史編纂委員)に就任し、同年7月、予備役陸軍少将に進級[1][2][3]。1941年(昭和16年)3月、支那事変史編纂委員長となるが、1943年10月に死去した[1]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』258頁では「めぐむ」。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、65頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』313-314頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』258頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』251、258頁。
  5. ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
  6. ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
  7. ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
  8. ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
  9. ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。