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小槻有家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小槻 有家(おづき の ありいえ、生年不詳 - 弘安3年8月20日1280年9月15日〉)は、鎌倉時代の廷臣。右大史小槻通時の子。官位正五位上・左大史。

経歴

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貞永2年(1233年正五位下に叙せられ、のち正五位上・主殿頭に叙任される。建長4年(1252年)兄・小槻淳方が没したことから、後を継いで左大史に任ぜられ大夫史となる。その後、30年近くに亘って大夫史の地位を占め、この間、穀倉院別当記録所勾当・修理東大寺大仏長官も務めたほか、能登介豊前守を兼ねた。また、後嵯峨上皇後深草上皇上北面にも仕えている。

一方で、文永元年(1264年大宮流小槻秀氏が左大史に任ぜられ、有家は大夫史として肩を並べられている[1]。また、かつて有家の曾祖父・小槻隆職や祖父・小槻国宗が開発した官厨家便補保(太政官厨家領)について、大宮流の小槻季継朝廷宣旨を得て次男の小槻朝治に譲与していた。文永4年(1267年)有家はこの所領は大宮流に相伝されるべきものではなく、官務(を務める壬生流)に知行されるべき旨を訴え出る[2]。この相論の結果は明らかでないが、係争地の一部についてその後も引き続き大宮流に知行されており、有家の訴えの一部は認められなかったと想定される[3]。文永10年(1273年)この相論の終結に当たって、有家と朝治は以下内容で『小槻有家・朝治連署起請文』を作成し[4]、小槻氏の中で永業流(大宮流)と隆職流(壬生流)の優越を宣言し、この両流にのみ官務職・相伝文書の独占的継承を認めた[5]

また、有家は同時に『小槻有家起請』を作成し、壬生流の中においても文書・所領を有家の子孫に単独相続することを定めた[7]。この両通の置文は壬生・大宮両流が自家のあり方を明記したものであることから、これを官務家としての自覚的宣言・確立として評価し、文永10年(1273年)を壬生・大宮両家の分立の画期とする指摘がある[8]

有家は壬生流の発展のために、所領の管理整備に努めたほか、『小槻有家置文』3ヶ条を遺して官務としての心構えを記して子孫を諫めるなど、壬生流官務家の基礎を固めた[9]。なお、有家は置文の中で特に文書・所領の保全の重要性を述べている[10]弘安3年(1280年)8月20日卒去

官歴

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注記のないものは『地下家伝』による。

系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ 『新抄』文永元年3月14日条
  2. ^ 「小槻有家請文案」『壬生家文書』311号
  3. ^ 中島善久「大宮流官務家の経済的基盤について」『社会文化史学』38、社会文化史学会、1998年
  4. ^ 『壬生家文書』1321
  5. ^ 遠藤珠紀 2002, p. 10.
  6. ^ 「為氏長者進止」
  7. ^ 『壬生家文書』39
  8. ^ 遠藤珠紀 2002, p. 11.
  9. ^ 『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』
  10. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  11. ^ a b 『系図纂要』
  12. ^ 『壬生家文書』3,4
  13. ^ a b 『壬生新写古文書』「宮城造営等」
  14. ^ 『百錬抄』
  15. ^ a b c 「兼国例勘文」『早稲田大学蔵資料影印叢書 古文書集2』
  16. ^ 『花押かがみ』2351
  17. ^ 『鎌倉遺文』9326
  18. ^ 太政官符案『壬生家文書』2230
  19. ^ 『系図纂要』

参考文献

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  • 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制 : 中世前期における朝廷運営の変質」『史学雑誌』第111巻第3号、史学会、2002年、293-322,441-44、doi:10.24471/shigaku.111.3_293ISSN 0018-2478NAID 110002365579 
  • 安田元久編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年

関連文献

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