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小槻広房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小槻広房
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 建仁2年6月15日1202年7月6日
改名 広房→房蓮(号)
官位 正五位下玄蕃頭
氏族 大宮家
父母 父:小槻永業
公尚家遠
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小槻 広房(おづき の ひろふさ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての官人左大史小槻永業の子。官位正五位下玄蕃頭。永業の系統である大宮家の実質上の始祖とされる。

経歴

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長寛2年(1164年)12月に父の小槻永業が病に伏し、その死の床で大夫史算博士大炊頭佐渡国知行するための文書などを譲られた。しかし、強行に進められたこの相続に対して、永業の弟・隆職が異議を挟む。結局、二条天皇の指示によって、翌長寛3年(1165年)正月に隆職が左大史(大夫史)に、広房が算博士に任ぜられた[1]。この時点で、隆職は30歳、広房は17歳であったが、大夫史の地位を得るためには、それまでの経験を重視するのが当時の一般的な認識であったことから、13歳も年下の広房に不利であった[2]。ここで小槻氏は大夫史を受け継ぐ隆職流(のち壬生流)と算博士を受け継ぐ広房流(のち大宮流)に分裂した。

仁安元年(1166年)に右大史となり、左大史・小槻隆職と相並ぶ。まもなく左大史に昇進するが、翌仁安2年(1167年従五位下叙爵して官史を辞任して弁官局を去り、嘉応元年(1169年)正月に史巡により尾張介に任ぜられた。同年8月に父生前の春日大社行幸の行事賞を代わりに受けて従五位上に、治承2年(1178年)には正五位下に昇進し、のち主税権助日向守を歴任している。広房は官史を去った後も官中文書を手元に保有し続け、安元3年(1177年)に発生した安元の大火では、被災して多数の文書を焼失した隆職を横目に[3]、広房の文書は難を逃れたという[4]。また、元暦元年(1184年後鳥羽天皇即位に際して、広房は式場となった太政官を修造し成功の見返りとして日向守に任ぜられている[5]。当時、源平の争乱により敗走する平氏が西国におり、西国に知行国を持つ公卿であっても当地に賦課をかけられない状況であった[6]。このように、日向国の国司では直接の収益を得ることが難しいにもかかわらず、広房は太政官の修造を行っていることから、隆職が主催する家から自立して相当の財力を握っていたことが窺われる[7]

文治元年(1185年)12月に源義経による頼朝追討宣旨を巡って頼朝から糾弾された隆職が高階泰経らと共に失脚すると、代わって広房が左大史に任ぜられ大夫史の地位に就く。この処分に対して、隆職は官厨家便補保や官文書の引き渡しを拒むなど激しい抵抗を示したことから、翌文治2年(1186年)2月に広房は隆職の抵抗について内々に源頼朝に訴えている[8]。しかし、広房が大夫史に就任してわずか2ヶ月足らずの短期間で、広房が鎌倉の頼朝との間で親密な伝達ルートを築いたとは考えにくい[9]。鎌倉側には官史の経験者である問注所執事三善康信がいたことから、既に広房と鎌倉側に何らかの関係があり、この大夫史の交替劇自体が広房自身あるいはその関係者によって仕掛けられた可能性も指摘されている[9]。広房は九条兼実政権下にて活躍し隆職と共に記録所寄人となる。しかし、建久2年(1191年)に後白河法皇の意向によって隆職が大夫史への復任を許されると、広房の扱いが問題となる。大夫史の職掌を隆職と広房の両名に分掌させる案も出るが、前例を勘じて宣旨を下すという重要な任務や文殿の管理を二人に分散させることに諸卿は否定的であったとみられ、結局広房は大夫史を退き[10]、翌建久3年(1192年河内守に遷任された。

建久9年(1198年)隆職が危篤となると、その後任の左大史を巡って隆職の子・国宗と争うがこれに敗れる。以後、国宗は没するまで22年間その地位を占め、国宗の死によって広房の孫・季継(公尚の子)が左大史に任じられるまで、広房の系統に左大史の官職が戻る事は無かった。その後、記録所勾当玄蕃頭を歴任した。建仁2年(1202年出家して房蓮と号すが、同年6月15日卒去

人物

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吉田経房から作法礼節が叔父・小槻隆職に勝っていると評され[11]、父・永業から後継者たるべく、幼いころから作法などもしっかり叩き込まれて育てられていたことが窺われる。隆職も「公人」としての広房の実力は認めざるを得なかったという[12]

官歴

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系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ a b 「年月日未詳小槻隆職筆起請文」(『大日本史料』4-補遺,建久9年10月29日条所収)
  2. ^ 今井[2015: 45]
  3. ^ 『玉葉』安元3年4月29日条
  4. ^ 『玉葉』治承元年5月10日条
  5. ^ 『山槐記』元暦元年7月28日条
  6. ^ 「御即位之間雑事偏成功也、諸国之勤無二一塵一云々」『玉葉』元暦元年8月3日条
  7. ^ 今井[2015: 46]
  8. ^ 『吾妻鏡』文治2年2月22日条
  9. ^ a b 今井[2015: 48]
  10. ^ 『玉葉』建久2年4月20日,22日,23日,5月2日条
  11. ^ 『吉記』三所収「国立歴史民俗博物館所蔵広橋家吉部秘訓鈔巻四」文治5年4月
  12. ^ 今井[2015: 48]
  13. ^ a b c d 『兵範記』
  14. ^ a b 『山槐記』
  15. ^ a b 『玉葉』
  16. ^ 『鎌倉遺文』102
  17. ^ 『吾妻鏡』建久3年7月26日条
  18. ^ 『百錬抄』
  19. ^ 『三長記』
  20. ^ 『系図纂要』

参考文献

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