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小林清栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林清栄
生誕 (1894-01-05) 1894年1月5日
三重県南牟婁郡神川村
死没 1987年12月20日(1987-12-20)(93歳没)
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 洋画家政治家
影響を与えた
芸術家
藤島武二鹿子木孟朗

小林 清栄(こばやし きよえい、1894年明治27年)1月5日[1] - 1987年昭和62年)12月20日[1])は三重県生まれの洋画家政治家である。

来歴

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1894年1月5日、三重県南牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれる。出生当時の名前は茂。父は神川村村長の小林信太郎、母の名は不詳であるが、文化学院を開いた西村伊作とは従兄弟の関係にあたる。

1905年、青木梅岳に師事。1908年、西村伊作に油絵技法を習う。1920年に鹿子木孟朗の門に入る。1924年、絵画を学ぶため渡仏[2]1927年(昭和2年)帰国。藤島武二に師事する[2]1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)にかけてカメラマン2人を率いて紀伊半島各地を巡って写真に収め、それらの写真を吉野熊野国立公園の指定申請書に添付した[3]。同国立公園は1936年(昭和11年)に指定を受けた[3]

1938年日中戦争海軍の従軍画家となる。1941年、清栄に改名する。1942年、海軍の航空艦隊等で従軍し、戦争画の制作に当たる[4][5]1943年、戦争画を集めた第7回海洋美術展に出展している[5]1944年、郷里に疎開した[2]

1946年神川村長に就任する。1948年に三重県美術協会が発足するに際しては、世話役として尽力した[6]1954年、町村合併で発足した熊野市の初代市長に就任した[3]1959年三重県教育委員に就任し、6年間務める。1965年、東京に転居。1982年四国八十八箇所霊場の絵の制作に取り組む。1987年(昭和62年)東京で死去。享年95(93歳没)。

小林の死後2011年(平成23年)10月に、遺族が吉野熊野国立公園指定申請に利用した写真87点を熊野市立図書館に寄贈した[3]

参考文献

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  • 『小林清栄画集』私家版、1974年

脚注

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  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、258頁。
  2. ^ a b c 小林清栄絵画展(2010/01/17) - 東紀州ほっとネット(2010年1月)。
  3. ^ a b c d 「吉野熊野80年前を見て 国立公園申請で撮影の写真展示」朝日新聞2012年5月10日付朝刊、熊野版35ページ
  4. ^ 戦争資料館 - 舞鶴海軍館の戦争画の紹介。小林の作品2点が確認できる。
  5. ^ a b 靖國の繪巻 - 國學院大學。小林の戦争画4点を紹介。
  6. ^ 岡田久春「戦後三重の美術 県展黎明の歌」 - 三重県立美術館

外部リンク

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