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小山貞朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小山貞朝
時代 鎌倉時代末期
生誕 弘安5年(1282年
死没 元徳2年10月1日1330年11月11日
(※別説あり)
別名 小四郎、下野大掾
官位 左衛門尉、下野検非違使
幕府 鎌倉幕府 下野守護
主君 将軍守邦親王
得宗:北条貞時高時
氏族 小山氏
父母 父:小山宗長
養父?:小山時朝(時村)[注釈 1]
兄弟 貞朝貞光
長井時秀の娘
秀朝秀政
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小山 貞朝(おやま さだとも)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人小山宗長(むねなが)の嫡男で、下野国の有力豪族小山氏の7代当主。小山城城主。

概要

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元亨3年(1323年)10月の北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していることが確認でき[1]、『常楽記元徳2年(1330年)条に「十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九」と書かれているので、これが史料で確認できる唯一の活動内容とみられる。

逆算すると弘安5年(1282年)生まれとなり、貞朝[注釈 2]の名乗りは、元服当時の北条氏得宗家当主・鎌倉幕府の執権(第9代)であった貞時から偏諱を受けたものとされる[3][4][2][5][注釈 3]

没年については別説も伝わる。

一つ目に、『尊卑分脈』の小山氏系図に「徳治二ー関東下向之時頓死」とあり、徳治2年(1307年)の死没とする。尚、『尊卑分脈』と『系図纂要』に「評定衆」とあるが、他史料において確認できず、『尊卑分脈』でのこの記載から、六波羅評定衆の可能性を指摘する見解もある[6]

二つ目に、元弘の乱において、新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めるために挙兵すると、これに応じて出陣したが相模国で討死したとする。この時、先祖代々の財を隠してから出陣したといわれる。

死後、嫡男の高朝(秀朝)が跡を継いだが、彼も後に別の戦で戦死している。元弘2年(1332年) - 元弘3年(1333年)の間、貞朝が下野守護の職にあったとする説があるが、秀朝の誤りではないかとみられる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 尊卑分脈』の小山貞朝の付記に「為時朝子」とある。時村は貞朝の大伯父(祖父・時長の兄)にあたる。
  2. ^ 「朝」の字は小山氏では朝政朝長以来に復活したもので、嫡男・秀朝や嫡孫・朝氏もこの字を共有している。これは小山氏が鎌倉時代後末期の低迷状況に危機感を抱き、同時代前期への強い回帰志向が表れたものであるとされている[2]
  3. ^ 弟の貞光についても同様であろう。

出典

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  1. ^ 『神奈川県史 資料編2 古代・中世』2364号「北条貞時十三年忌供養記」(『円覚寺文書』)。
  2. ^ a b 市村高男 著「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察-系図研究の視点と方法の探求-」、峰岸純夫; 入間田宣夫; 白根靖大 編『中世武家系図の史料論』 上、高志書院、2007年、96-97頁。 
  3. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、p.15系図ほか。 
  4. ^ 『結城市史 第四巻 古代中世通史編』結城市、1980年、297頁。 
  5. ^ 松本一夫 著「総論 − 小山氏研究の成果と課題」、松本一夫 編『下野小山氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻〉、2012年、13頁。 
  6. ^ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」p.127-⑤頁。 

関連項目

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