尉瑾
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尉 瑾(うつ きん、生没年不詳)は、東魏・北斉の官僚・政治家。字は安仁[1][2]。本貫は代郡[3][4]。
経歴
[編集]北魏の肆州刺史の尉慶賓の子として生まれた。若くして明敏で学問を好み、官に入って直後をつとめた。司馬子如が東魏の政権に参画すると、尉瑾は司馬子如の外姪の皮氏を妻として迎えていたことから、中書舎人に抜擢された[1][2][5]。武定3年(545年)、南朝梁に対する使者として立った[6][7]。後に東平郡太守をつとめ[8]、吏部郎中となった。武定7年(549年)、高澄が死去すると、尉瑾は鄴の北宮に入って高徳正とともに機密をつかさどった[9][2][5]。北斉の天保年間、七兵尚書侍郎に転じた[4]。乾明元年(560年)、常山王高演が政権を握ると、尉瑾は吏部尚書に任じられた。大寧元年(561年)、武成帝が即位すると、尉瑾は趙彦深・元文遙・和士開らと結んで、ともに重用された[10][2][5]。天統2年(566年)1月、尚書右僕射に上った[11][12][13]。後に病没した[10][2]。
子の尉徳載が後を嗣ぎ[10][14]、通直散騎侍郎[15]の位を受けた。
人物・逸話
[編集]- 尉瑾の女性関係は乱れており、兄嫁の元氏と密通していた[5]。
- 尉瑾が南朝梁への使節をつとめたとき、梁の陳昭と面会した。陳昭は面会後ひそかに「この御仁は宰相となった後、3年と経たずに死ぬだろう」と語った。のちに陳昭は南朝陳の使節として北斉に来朝した。このとき尉瑾は尚書右僕射として威勢を振るっていたが、陳昭はまた「2年で死ぬだろう」と人に語り、そのとおりになった[16]。
脚注
[編集]- ^ a b 氣賀澤 2021, p. 507.
- ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 527.
- ^ 魏書 1974, p. 655.
- ^ a b 北史 1974, p. 734.
- ^ a b c d 北史 1974, p. 736.
- ^ 魏書 1974, p. 308.
- ^ 北史 1974, p. 192.
- ^ 魏書 1974, p. 659.
- ^ 氣賀澤 2021, pp. 507–508.
- ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 508.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
- ^ 北斉書 1972, p. 98.
- ^ 北史 1974, p. 287.
- ^ 北斉書 1972, p. 528.
- ^ 北史 1974, p. 737.
- ^ 北史 1974, pp. 736–737.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。