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尉瑾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尉 瑾(うつ きん、生没年不詳)は、東魏北斉官僚政治家は安仁[1][2]本貫代郡[3][4]

経歴

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北魏肆州刺史尉慶賓の子として生まれた。若くして明敏で学問を好み、官に入って直後をつとめた。司馬子如が東魏の政権に参画すると、尉瑾は司馬子如の外姪の皮氏を妻として迎えていたことから、中書舎人に抜擢された[1][2][5]武定3年(545年)、南朝梁に対する使者として立った[6][7]。後に東平郡太守をつとめ[8]吏部郎中となった。武定7年(549年)、高澄が死去すると、尉瑾はの北宮に入って高徳正とともに機密をつかさどった[9][2][5]。北斉の天保年間、七兵尚書侍郎に転じた[4]乾明元年(560年)、常山王高演が政権を握ると、尉瑾は吏部尚書に任じられた。大寧元年(561年)、武成帝が即位すると、尉瑾は趙彦深元文遙和士開らと結んで、ともに重用された[10][2][5]天統2年(566年)1月、尚書右僕射に上った[11][12][13]。後に病没した[10][2]

子の尉徳載が後を嗣ぎ[10][14]、通直散騎侍郎[15]の位を受けた。

人物・逸話

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  • 尉瑾の女性関係は乱れており、兄嫁の元氏と密通していた[5]
  • 尉瑾が南朝梁への使節をつとめたとき、梁の陳昭と面会した。陳昭は面会後ひそかに「この御仁は宰相となった後、3年と経たずに死ぬだろう」と語った。のちに陳昭は南朝陳の使節として北斉に来朝した。このとき尉瑾は尚書右僕射として威勢を振るっていたが、陳昭はまた「2年で死ぬだろう」と人に語り、そのとおりになった[16]

脚注

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  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 507.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 527.
  3. ^ 魏書 1974, p. 655.
  4. ^ a b 北史 1974, p. 734.
  5. ^ a b c d 北史 1974, p. 736.
  6. ^ 魏書 1974, p. 308.
  7. ^ 北史 1974, p. 192.
  8. ^ 魏書 1974, p. 659.
  9. ^ 氣賀澤 2021, pp. 507–508.
  10. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 508.
  11. ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
  12. ^ 北斉書 1972, p. 98.
  13. ^ 北史 1974, p. 287.
  14. ^ 北斉書 1972, p. 528.
  15. ^ 北史 1974, p. 737.
  16. ^ 北史 1974, pp. 736–737.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4