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封隆之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

封 隆之(ほう りゅうし、485年 - 545年)は、中国北魏末から東魏にかけての政治家・軍人。は祖裔。小名は皮。本貫渤海郡蓨県[1][2][3]

経歴

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北魏の司空封回の子として生まれた。弱冠にして州郡主簿となり、奉朝請を初任とし、直後を領した。汝南王元悦が王府を開くと、その下で中兵参軍となった[1][2][3]

延昌年間、法慶らが大乗の乱を起こすと、隆之は大都督元遥の下で乱の鎮圧にあたり、武城子の爵位を受けた。司徒主簿・河南尹丞を兼ねた。ときに青州斉州の士民たちが乱を起こすと、隆之は北魏の朝廷の使節として説得にあたり、みな降伏させた。永安年間、撫軍府長史に任ぜられた。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害され、爾朱兆らが晋陽に拠ると、孝荘帝河内の要衝を任せるため、隆之を龍驤将軍・河内郡太守に任じた。間もなく持節・後将軍・仮平北将軍・河内郡都督を加えられた。隆之が河内郡に到着しないうちに、爾朱兆が洛陽に入り、孝荘帝は殺害された[4][2][3]

隆之は父が爾朱氏に殺害されたため、報復を誓った。普泰元年(531年)2月、高乾らとともに冀州の州城を夜襲して落とし、冀州刺史に推された。高歓が晋陽を出て東に向かうと、隆之は子の封子絵を派遣して滏口で迎えさせた。高歓が信都に入ると、隆之は反爾朱氏の挙兵を熱烈に支持した。中興元年(同年)10月、後廃帝が立つと、隆之は左光禄大夫・吏部尚書に任ぜられた。高歓の下で爾朱兆らの軍と広阿で戦い、これを撃破した。使持節・北道大使となった。中興2年(532年)、高歓が爾朱兆らを韓陵で破ったとき、隆之は城の留守をつとめた。爾朱兆らが敗走すると、隆之は行冀州事となり、捕虜の3万人あまりを諸州に分置した[5][6][3]

間もなく侍中として召された。高歓が洛陽から鄴に軍を返そうとしたとき、隆之は斛斯椿賀抜勝賈顕智らに警戒するよう、高歓に忠告した。間もなく隆之は安徳郡公に封ぜられ、儀同三司に進んだ。麟趾閣で参議して、新制を定めた。亡き妻の祖氏に范陽郡君の位を追贈された。前に受けた富城子と武城子の爵位を弟の子の封孝琬らに譲った[7][8][9]永熙3年(534年)、隆之は先だって妻を亡くしていたことから、北魏の孝武帝が従妹(元明月)をかれにめあわせようとしていると、ひそかに孫騰に言った。孫騰は嫉妬に駆られてかれを害そうと、斛斯椿に告げ口した。斛斯椿は孝武帝に報告した。このため隆之は郷里に逃げ帰った[10][11][12]。孝武帝の召しに応じず、高歓のために晋陽に赴き、并州刺史を代行した。清河王元亶大司馬となると、隆之はその下で長史となった[13][8][14]

天平元年(同年)、東魏の孝静帝が擁立されると、隆之は侍中として入朝し、遷都の議論に参与した。侍中・侍講・吏部尚書・行冀州事となった。陽平の路紹遵が行台を号して乱を起こし、定州博陵郡を落とし、冀州に侵入した。隆之は長楽郡太守の高景らを率いて叛乱軍を撃破し、路紹遵を生け捕りにして、晋陽に送った。元象元年(538年)、冀州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられた。都督の孛八・高法雄・封子元らが乱を起こすと、隆之は冀州の軍を率いて乱を平定した。元象2年(539年)、侍中としてまた召された。行梁州事に転じ、また行済州事となり、尚書右僕射として召された。武定元年(543年)、北豫州刺史の高仲密が乱を起こそうと、冀州の豪族たちに内応の使者を送り、扇動させた。隆之は説得につとめ、冀州の治安を安定させた。高澄は高仲密の支党を厳罰に処そうとしたが、隆之は追っての処罰をせず、事なきを得た[15][16][14]

隆之は本官のまま行済州事となり、斉州刺史に転じた。武定3年(545年)、在官のまま61歳で死去した。使持節・都督滄瀛二州諸軍事・驃騎大将軍・瀛州刺史・司徒公の位を追贈された。高歓によりさらに使持節・都督冀瀛滄斉済五州諸軍事・冀州刺史・太保の位を贈られ、を宣懿といった[17][18][14]

子女

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脚注

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  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 299.
  2. ^ a b c 北斉書 1972, p. 301.
  3. ^ a b c d 北史 1974, p. 893.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 299–300.
  5. ^ 氣賀澤 2021, pp. 300–301.
  6. ^ 北斉書 1972.
  7. ^ 氣賀澤 2021, p. 301.
  8. ^ a b 北斉書 1972, p. 302.
  9. ^ 北史 1974, pp. 893–894.
  10. ^ 氣賀澤 2021, p. 28.
  11. ^ 北斉書 1972, p. 13.
  12. ^ 北史 1974, p. 219.
  13. ^ 氣賀澤 2021, pp. 301–302.
  14. ^ a b c 北史 1974, p. 894.
  15. ^ 氣賀澤 2021, pp. 302–303.
  16. ^ 北斉書 1972, pp. 302–303.
  17. ^ 氣賀澤 2021, p. 303.
  18. ^ a b 北斉書 1972, p. 303.
  19. ^ 氣賀澤 2021, p. 304.
  20. ^ 氣賀澤 2021, pp. 307–308.
  21. ^ 北斉書 1972, p. 306.
  22. ^ 北史 1974, p. 895.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4