寄藤好実
寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863年5月1日) - 昭和3年(1928年)5月21日)は、日本の教育者。幼名は銀吉。号は紫軒。
生涯
[編集]信濃国松本城下に松本藩士寄藤武八郎義弘の長男として生まれる。明治元年(1868年)藩校崇教館に学ぶ。廃藩による秩禄処分により、同7年(1874年)一家を挙げて安曇郡東穂高村(現長野県安曇野市)に移り、高橋白山の矢原研成学校に学ぶ。生活は困窮したが、苦学の末、同16年(1883年)長野県師範学校を卒業。南安曇郡穂高尋常小学校訓導、東筑摩郡小学督業、同郡堀之内尋常小学校校長を経て、同22年(1889年)松本尋常小学校(後の旧開智学校)校長兼訓導に転任し、同25年(1892年)同高等小学校校長兼訓導に任命された。在任中は校内講習を通して技能教科を一変させ、また児童組合を設けて校外指導に努め、校訓と校歌・校章・校旗を制定して児童訓育の徹底を図った。更に同24年(1891年)社会教育のため開智書籍館(松本市図書館の前身)を創立した。
一方、明治20年(1887年)東筑摩教育交詢会の首脳となり、沢柳政太郎の教育学、桑木厳翼の倫理学、坪井正五郎の人類学などの講習会を開き、同33年(1900年)には「松本人類学会」の発起人の一人となる[1]。同34年(1901年)には松本高等女学校の設立に尽力し、同校教諭などを経て、同年、文部省普通学務局に入庁し、のち第1課長を務める傍ら、同37年(1904年)日本大学高等師範科に夜間通学し卒業。同41年(1908年)新設の徳島県女子師範学校校長兼徳島高等女学校校長、のち満州に渡り関東都督府高等女学校校長、大正6年(1917年)大連高等女学校校長などを歴任し、関東庁の命により、同12年(1923年)に教科書編纂及び満州社会事業研究会評議員を務めた。同13年末(1924年)に退職し、昭和3年(1928年)全国高等女学校長協会主事嘱託となった。昭和3年(1928年)東京府下の自宅で死去した。
勲章
[編集]著書
[編集]- 「初学国語仮名遣読本」大日本図書 1895年
脚注
[編集]- ^ 杉山(2022) p.179
参考文献
[編集]関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 藤井長蔵 |
大連高等女学校長 1917年 - 1924年 |
次代 石川義次 |
先代 (新設) |
徳島県女子師範学校長 1908年 - 1917年 |
次代 伊藤義彦 |
先代 山岡光太郎 |
徳島県立高等女学校長 1908年 - 1917年 |
次代 伊藤義彦 |