宮尾益英
宮尾 益英(みやお ますひで、1921年(大正10年)11月28日 - 1994年(平成6年)5月29日)は、日本の小児科医、小児科学者。医学博士(東京大学・1953年)。徳島大学名誉教授、杏林大学名誉教授。
略歴
[編集]新潟県北蒲原郡京ヶ瀬村大字猫山(現 阿賀野市猫山)の10代続く医師の家・宮尾家の四男として新潟県新潟市西大畑町(現 新潟市中央区西大畑町)で育つ[1]。
1939年(昭和14年)3月に新潟中学校を卒業、1942年(昭和17年)3月に新潟高等学校を卒業[注 1]、1947年(昭和22年)に東京帝国大学医学部医学科を卒業[注 2]。
1948年(昭和23年)に東京帝国大学医学部小児科学教室(担任:詫摩武人教授)に入局[2][3]、1949年(昭和24年)に同教室助手に就任、1953年(昭和28年)5月に徳島大学医学部小児科学教室(担任:北村義男教授)助教授に就任[2]。
1964年(昭和39年)8月にマールブルク大学に留学、ホルスト・ビッケルに師事、1968年(昭和43年)12月から1969年(昭和44年)12月までハイデルベルク大学に留学、ホルスト・ビッケルに師事[4]。
1970年(昭和45年)5月に徳島大学医学部小児科学教室教授に就任、1976年(昭和51年)に徳島大学医学部附属病院病院長に就任、1982年(昭和57年)4月に徳島大学医学部第12代学部長に就任[注 3]。
1987年(昭和62年)4月に徳島大学を定年退官、徳島大学名誉教授の称号を受称、杏林大学客員教授に就任、東京海上メディカルサービス顧問に就任、1990年(平成2年)に千葉県柏市松ケ崎に宮尾クリニックを開業[6][7]。
1994年(平成6年)5月29日午前5時42分に東京大学医学部附属病院で呼吸不全のため死去[8]。
徳島大学で体外受精の実施計画がまとまったのを機に、1982年(昭和57年)12月に同大学に日本で最初の倫理委員会を設置して初代倫理委員長に就任した[1][8][9][10]。
宮尾益英の医師として誠実な生き方が、1987年(昭和62年)5月にNHK教育テレビの『心が輝いたあの日』という番組で「忘れていた手紙」というタイトルで放送され[11][12]、中学校の道徳の時間の副読本に採り上げられた[13][14]。
栄典
[編集]家族・親戚
[編集]- 宮尾幾三郎 - 祖父、宮尾家8代目、医師。
- 宮尾幾三郎 - 父、宮尾家9代目、宮尾幾三郎の養子、医師。
- 宮尾益一郎 - 兄、宮尾家10代目、整形外科医、猫山宮尾病院開設者・初代院長[16]。
- 宮尾正雄 - 義兄、耳鼻咽喉科医、第7代新潟市医師会会長、大日本帝国陸軍第5飛行師団隷下部隊附軍医[注 4][注 5][注 6][注 7]。
- 宮尾益夫 - 兄、歯科医。
- 宮尾益隆 - 兄。
- 宮尾益昭 - 弟、産婦人科医。
- 宮尾益敏 - 弟、元新潟交通副社長・相談役。妻の叔祖父(父の父の弟)は内科医の金子義晁。
- 宮尾益弘 - 弟、元新潟日報社社員。
- 宮尾益克 - 甥、宮尾益一郎の長男、宮尾家11代目、整形外科医、猫山宮尾病院2代目院長。
- 宮尾益信 - 甥、宮尾益一郎の次男、整形外科医、元猫山宮尾病院副院長。
- 宮尾重人 - 義甥、宮尾益一郎の長女の夫、眼科医。
- 宮尾益征 - 義甥、宮尾正雄の長男、耳鼻咽喉科医。
- 宮尾益紀 - 甥、宮尾益夫の長男、歯科医。
- 宮尾益治 - 甥、宮尾益夫の次男、元新潟放送常務取締役・東京支社長。
- 宮尾益知 - 長男、小児科医。
- 宮尾益和 - 次男、整形外科医、宮尾クリニック2代目院長。
- 宮尾益理子 - 長女、内科医。
- 宮尾益史 - 甥、宮尾益敏の長男、元第四銀行行員、日本証券アナリスト協会認定アナリスト。
- 宮尾益尚 - 大甥、宮尾益克の長男、宮尾家12代目、整形外科医、猫山宮尾病院3代目院長。
- 宮尾益人 - 義大甥、宮尾重人の長男、精神科医。
- 宮尾益也 - 義大甥、宮尾重人の次男、眼科医。
- 宮尾益佳 - 大甥、宮尾益紀の長男、歯科医。
著書
[編集]編著書
[編集]- 『最新育児小児病学』南江堂、1980年。
編書
[編集]- 『微量元素と小児疾患』金原出版〈小児科MOOK 33〉、1984年。
監修書
[編集]- 『アトピー性皮膚炎のニンニク入浴療法』菊池誠[著]、千曲秀版社、1990年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 3年間、漫画家の高橋留美子の父の高橋光雄と同級生。
- ^ 1942年(昭和17年)4月に入学。
- ^ 1986年(昭和61年)4月に退任[5]。
- ^ 宮尾正雄が太平洋戦争で1941年(昭和16年)6月に召集され飛行第5戦隊の軍医として柏飛行場にいたところ、7月末に満州に派遣される前に、義弟の宮尾益英とその新潟高等学校の後輩で千葉県東葛飾郡福田村出身の新村秀雄(新村勝雄の弟)が訪ねてきた[17]。
- ^ 宮尾正雄が満州の温春飛行場にいたところ、1941年(昭和16年)9月22日に、長男が生まれたとの電報が届いた。宮尾家では男子の名前に「益」の一字が付くことになっていて、戦争中なので出征の「征」と組み合わせて、「益征(ますゆき)」と名付けた[18]。
- ^ 宮尾正雄は軍医のため、インパール作戦において食糧節約のため自給自足の命令により食べることができる植物の判断を任せられたのだが、植物学者ではないので分からなかった。代わりに新潟県中蒲原郡新津町の山持ち農家出身の衛生兵長が判定してくれた[19]。
- ^ 宮尾正雄は1944年(昭和19年)5月初旬に第5飛行師団軍医部勤務命令によりインパール作戦から離脱してラングーンに帰還[20]。終戦後、広島県の大竹港の兵舎で階級章を返還[21]。最終階級は陸軍軍医中尉。新潟駅で家族と義兄の宮尾益一郎に迎えられた[22]。
出典
[編集]- ^ a b 『現代 物故者事典 1994〜1996』545頁。『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』577頁。
- ^ a b 『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』596頁。
- ^ 東大小児科同窓生 - 東京大学医学部小児科学教室
- ^ 『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』597頁。
- ^ 歴代医学部長 - 徳島大学医学部・大学院
- ^ 院長ご挨拶 | 宮尾クリニック|千葉県柏市
- ^ 宮尾 晃代 院長の独自取材記事(宮尾クリニック)|ドクターズ・ファイル
- ^ a b 『新潟日報』1994年5月30日付朝刊、23面。
- ^ 『哲学・科学史論叢』第17号、89-91頁。
- ^ 館長対談シリーズ「共に創る図書館」(7) (PDF) (徳島大学附属図書館報 メールマガジン「すだち」No.142)
- ^ 心が輝いたあの日 「忘れていた手紙」 | NHKクロニクル | NHKアーカイブス
- ^ 『放送教育』第42巻第5号、44-45頁。『ヒューマン ドキュメント 心が輝いたあの日』104-110頁。
- ^ 『中学生の道徳 かけがえのない きみだから 3年』102-105頁。『中学道徳 心つないで 3』92-95頁。
- ^ 中学校第3学年道徳学習指導案(資料名「忘れていた手紙」) (PDF) - 埼玉県立総合教育センター
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第1431号、9-10頁、大蔵省印刷局、1994年6月30日。
- ^ 概要と沿革 - 整形外科 猫山宮尾病院(膝関節・股関節外科)
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』5頁。原文では新村秀雄は宮尾益英の同級生。
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』8頁。
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』86頁。
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』89頁。
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』161頁。
- ^ 『ある飛行隊軍医の物語』162-163頁。
参考文献
[編集]- 「宮尾益英」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』596-597頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
- 「宮尾益英」『現代 物故者事典 1994〜1996』545頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、1997年。
- 「宮尾益英」『新潟県 人物・人材情報リスト 2021 第1巻』577-578頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2020年。
- 「宮尾益英氏」『新潟日報』1994年5月30日付朝刊、23面、新潟日報社、1994年。
- 「日本における体外受精の導入過程の歴史分析:不確実性下の意思決定と責任」『哲学・科学史論叢』第17号、83-102頁、田中丹史[著]、東京大学教養学部哲学・科学史部会、2015年。
- 「忘れていた手紙」『放送教育』第42巻第5号、44-45頁、大蔵敏子[著]、日本放送教育協会、1987年。
- 「忘れていた手紙」『ヒューマン ドキュメント 心が輝いたあの日』104-110頁、大蔵敏子[著]、NHK教育番組センター[編]、日本放送教育協会、1988年。
- 「忘れていた手紙」『中学生の道徳 かけがえのない きみだから 3年』102-105頁、大蔵敏子[著]、村田昇・金井肇・蛭田政弘[監修]、学研教育みらい、2011年。
- 「忘れていた手紙」『中学道徳 心つないで 3』92-95頁、大蔵敏子[著]、村井実・尾田幸雄[監修]、教育出版、2012年。
- 『ある飛行隊軍医の物語』宮尾正雄[著]、私家版、1980年。
関連文献
[編集]学職 | ||
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