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宍戸就附

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宍戸就附
時代 江戸時代前期
生誕 寛永12年5月15日1635年6月29日
死没 延宝4年12月24日1677年1月17日
別名 通称:忠三郎
戒名 立徳院殿外翁宗格
墓所 大寧寺山口県長門市深川湯本)
官位 雅楽頭土佐守
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 桓武平氏国香流熊谷氏藤原北家道兼流八田氏宍戸氏
父母 父:熊谷元実、母:杉重政の娘
養父:宍戸就尚
兄弟 就附熊谷就実就延隆将
正室:宍戸就尚の娘
海賊(夭折)、女(毛利定道室)、
女(益田就高室)、女(毛利広矩正室)、
千代松(夭折)、女(夭折)、
女(毛利広矩継室、毛利就久室)、
於勢与(井原広高室)
養子:隆将(実弟)、女(神村就久の娘、口羽就通室)
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宍戸 就附(ししど なりちか)は、江戸時代前期の武士毛利氏家臣で長州藩士。宍戸家第17代当主。父は熊谷元実。母は杉重政の娘。祖父は宍戸広匡。養父は宍戸就尚。正室は宍戸就尚の娘。弟に熊谷就実宍戸就延宍戸隆将通称は忠三郎、雅楽、土佐。

生涯

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寛永12年(1635年5月15日毛利氏家臣・熊谷元実の三男として生まれる[1]

寛永17年(1640年8月23日、伯父・宍戸就尚が嫡男不在のまま死去したため、就尚の娘と婚姻して婿養子としてその家督を相続し、三丘領主、長州藩一門家老となり、藩主毛利秀就綱広の二代に仕えた[1]

延宝3年(1675年)、家計逼迫により、藩主綱広に旅役免除を願い出て許される。

延宝4年(1676年12月24日に嫡男不在のままの宍戸家屋敷において死去[1]。享年42[1]長門国深川の大寧寺に葬られた[1]。家督は実弟の就延が相続した[1]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 石川卓美『防長歴史用語辞典』(マツノ書店1986年
  • 萩藩閥閲録』巻1「宍戸美濃」