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宍戸就延

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宍戸就延
時代 江戸時代中期
生誕 寛永20年2月1日1643年3月20日
死没 享保7年7月21日1722年8月27日
改名 宍戸隆通→宍戸就宗→宍戸就延
別名 通称:八助、修理、備前、志摩、丹波、主計
戒名 徳光院殿空峯心等
墓所 久岳山貞昌寺(山口県周南市大字小松原)
主君 毛利綱広吉就吉広吉元
長州藩
氏族 桓武平氏国香流熊谷氏藤原北家道兼流八田氏宍戸氏
父母 父:熊谷元実、母:杉重政の娘
兄弟 就附熊谷就実就延隆将
正室:毛利就泰の娘
宍戸弥三郎、女(福原広頼正室)、於千代(宍戸広隆正室)
養子:広隆(兄・熊谷就実の長男)、女(馬来元征の娘、宍戸広貞室)、女(宍戸元俊の娘、宍戸隆要室)、女(井原広高の娘、清水元周室)、元厚宍戸就之の四男)
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宍戸 就延(ししど なりのぶ)は、江戸時代前期の武士毛利家家臣で長州藩家老宍戸家第18代当主。父は熊谷元実。祖父は宍戸広匡。母は杉重政の娘。兄は宍戸就附熊谷就実。正室は阿川毛利家当主・毛利就泰の娘。養子に宍戸広隆

生涯

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寛永20年(1643年2月1日毛利氏家臣・熊谷元実の三男として生まれる[1]

延宝4年(1676年12月14日宍戸氏当主となっていた実兄・宍戸就附が嫡男不在のまま死去したため家督を相続し、三丘領主、長州藩の一門家老となった[1]

天和2年(1682年)の朝鮮通信使来朝の際には、赤間関で接待役を務めた。

宝永元年(1704年幕府より江戸城普請助役を命じられ、普請惣奉行を務める。

正徳5年(1715年)、万役山事件により長州藩と支藩の徳山藩が対立すると、翌正徳6年(1716年)に特使として徳山藩に派遣され、徳山藩主・毛利元次の説得にあたったが、長州藩側の意向を尋ねる元次に対して「よくお考えください」と述べるだけで要領を得なかったため不調に終わる。

享保7年(1722年7月21日にある宍戸氏の屋敷[注釈 1]において死去[1]。享年80。宍戸家の菩提寺である周防国熊毛郡三丘久岳山貞昌寺に葬られる[1]。家督は実兄・熊谷就実の子である広隆が相続した[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 宍戸氏の系譜では「灞城(はぎ)邸」、「灞城第」と表記している[1]

出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 徳山市史編纂委員会『徳山市史 上』(1971年
  • 石川卓美『防長歴史用語辞典』(マツノ書店1986年
  • 萩藩閥閲録』巻1「宍戸美濃」