安藤直行
安藤 直行 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 安政5年11月20日(1858年12月24日) |
死没 | 明治41年(1908年)3月6日 |
改名 | 徹福丸(幼名)、直行 |
墓所 | 多磨霊園 |
官位 | 従五位、男爵、正四位、勲四等、従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 紀伊田辺藩知事 |
氏族 | 三河安藤氏 |
父母 | 父:安藤直裕、母:戸田光庸七女貞 |
妻 | 正室:中御門経之三女・八千子 |
子 | 直雄、直忠、徹雄、栄子、文子、房子 |
安藤 直行(あんどう なおゆき)は、紀伊国田辺藩の第17代藩主(知藩事)。明治維新後は華族に列し、貴族院議員や日本帝国小銃射的協会(現在の日本クレー射撃協会及び日本ライフル射撃協会)理事[1]などを歴任した。位階は従三位[2]。勲等は勲四等。爵位は男爵。
生涯
[編集]安政5年(1858年)11月20日、紀州藩附家老・田辺安藤家16代安藤直裕の四男[3]として江戸小石川水道町(現在の東京都文京区水道)の安藤家上屋敷にて誕生[4]。幼名は徹福丸。文久3年(1863年)3月に家督を相続したが[5][6]、ほどなくして父が当主に復帰している。
明治4年(1871年)10月27日、従五位に叙位し、翌28日に元服した上で昇殿を許され、明治天皇に拝謁する[4]。父の隠居により同年11月8日に再び家督を相続する。明治6年(1873年)6月12日に天皇の御座所である旧江戸城西の丸御殿が焼失したため、営繕助役として金100円を献納する。明治9年(1876年)11月5日、小石川水道町の自邸を旧越前福井藩主・松平茂昭に譲り、直行は深川安宅町6番地(現在の江東区新大橋)に転居した。
三河安藤氏は藤原姓を自称していたが、これは安倍姓を藤原姓に改めたものであるとして、明治9年(1876年)10月16日に宮内省に安倍復姓を願い出て、翌明治10年(1877年)1月19日に復姓が認められると皇別に編入された[4]。明治17年(1884年)7月8日に特旨をもって華族に列し、男爵に叙される[7]。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任[8]。明治33年(1900年)6月20日、正四位に叙位。明治39年(1906年)4月1日、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章[9]。
明治41年(1908年)3月6日、死去。同日付で従三位に叙位。家督は長男の直雄が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 青山長格編『華族鑑』海老原兼太郎、1894年、88頁。
- 維新史料編纂会編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年、25頁。
- 柴山典編『華族類別譜(明治17年)』上巻、屏山書屋、1884年、12-13頁。
- 柴山典編『華族類別譜(附録)』巻之一、屏山書屋、1884年、88-97頁。
- 鈴木真年『華族諸家伝』上巻、杉剛英、1880年、9頁。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年、217頁。
- 水野慶次編『華族大系』系譜社出版部、1914年、573頁。
- 『人事興信録(初版)』人事興信所、1911年、894-895頁。
- 『人事興信録(第2版)』人事興信所、1911年、1078-1079頁。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (田辺)安藤家初代 1884年 - 1908年 |
次代 安藤直雄 |