コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

安藤義門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安藤義門
時代 江戸時代前期
生誕 寛永13年9月7日1636年10月5日
死没 承応3年8月6日1654年9月16日
改名 千福丸(幼名)、直栄、義門
戒名 亮藤院穹賢居士
墓所 愛知県岡崎市妙源寺
官位 従五位下帯刀
主君 徳川頼宣
紀州藩附家老紀伊田辺藩主)
氏族 安藤氏
父母 父:安藤直治
正室:松平成重
養子:直清
テンプレートを表示

安藤 義門(あんどう よしかど)は、江戸時代前期の紀伊国田辺藩3代藩主(紀州藩附家老)。官位従五位下・帯刀。初名は直栄(なおよし)[1]

生涯

[編集]

寛永13年(1636年)9月7日、2代藩主・安藤直治の長男として紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市)にて誕生[1]。幼名は千福丸。父は義門が生まれる5日前に死去していたため、1歳で家督を相続した。

慶安元年(1648年)10月1日、3代将軍徳川家光と世子・徳川家綱に拝謁し[2]承応元年(1652年)12月29日には従五位下、帯刀に叙任[2]。祖父・直次と同じ官職となったのは、主君の紀州藩主・徳川頼宣が幕府に願い出たためであるという[2]

承応3年(1654年)8月6日、紀伊で死去した。享年19(満17歳没)。跡を養子・直清が継いだ。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』791頁。
  2. ^ a b c 柴山[1884: 91]

参考文献

[編集]
  • 柴山典編 『華族類別譜(附録)』巻之一、屏山書屋、1884年、91頁。
  • 寛政重修諸家譜』第6輯、国民図書、1923年、791頁。