守田保太郎
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守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年(明治15年)3月27日[1] - 1959年(昭和34年)12月12日[2][3][4])は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長[5][6][7][8]。守田商店代表[5]。族籍は東京府平民[9]。
人物
[編集]東京府・守田重次郎の長男[6][7][10]。守田治兵衛の従兄[6][7]。1918年、家督を相続した[6][7][10]。大成中学卒業[5]。慶應義塾大学に学んだ[10]。
武田長兵衛商店に勤務した[5]。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる[6][7]。宗教は真宗[5]、あるいは浄土宗[6][7][10]。趣味は読書[5]。住所は東京大森区新井宿[6][7][10]、牛込市谷本村町[9]。
家族・親族
[編集]- 守田家
- 父・重次郎(1856年 - ?、千葉、澤田嘉兵衛の弟)[1][8][11]
- 母・とし(1864年 - ?、三重、栗本文亨[6]、あるいは栗本文享の妹[8][11])
- 弟
- 妻
- 男(1918年 - ?)[6][7]
- 長女・貞子(1908年 - ?、東京、加藤泰成の妻)[6][7]
- 親戚
- 初代田村新蔵(埼玉県多額納税者、大地主、農業、洋紙、砂糖、小麦粉販売業)
- 2代目田村新蔵(埼玉県多額納税者、東武商事代表取締役、農業、洋紙、砂糖、小麦粉販売業)
- 瀬田醻一(東京府多額納税者、東京市会議員、板橋区会議員、地家主)
- 守田治兵衛(貞松堂、守田宝丹本舗、売薬製造業)[5] 治兵衛(1841-1912)は守田家の本家で、売薬商の9代目。安政5年(1858年)に新薬「宝丹」を考案し、これが当たり財を成した。東京市会議員も務め、古銭の収集、書などでも知られた。[12][13]
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録 第10版 下』モ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月26日閲覧。
- ^ 「守田保太郎氏(武田薬品工業顧問)」『毎日新聞』1959年12月14日、11面。
- ^ 「守田保太郎氏(武田薬品工業会社顧問)」『読売新聞』1959年12月14日、11面。
- ^ 「守田 保太郎氏(武田薬品工業会社顧問)」『朝日新聞』1959年12月14日、12面。
- ^ a b c d e f g 『大衆人事録 第12版 東京篇』東京675頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年3月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第12版 下』モ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第13版 下』モ17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月26日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第11版 下』モ24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月26日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第6版』も9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 下』モ17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月27日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第9版』モ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年2月26日閲覧。
- ^ 守田治兵衛(読み)もりた じへえコトバンク
- ^ 守田治兵衛 守田宝丹福山誠之館同窓会
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937-1939年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 東京篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。