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季孫行父

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

季孫 行父(きそん こうほ、? - 紀元前568年)は、中国春秋時代の正卿。姓は、氏は季孫、名は行父季文子と呼ばれる。魯の荘公の弟である季友(公子友)の孫。季孫無佚中国語版(斉仲無佚)の子。

生涯

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魯の文公6年(紀元前621年)夏、季文子は、使者としてに赴き、陳から妻を迎えた[1][2]

同年秋、季文子は、使者としてに赴いた[3][4]

文公12年(紀元前615年)、季文子は、軍を率いて諸と鄆に城を築いた[5]

文公13年(紀元前614年)、文公が穆公と棐の地で宴を催した際、鄭の子家(公子帰生中国語版)が詩経の「小雅」にある「鴻雁」の詩を歌って、小国の鄭に心をかけてほしい旨を寓すると、季文子は、「小雅」にある「四月」の詩を歌って、その労に堪え切れぬ旨を寓した[注釈 1]。また、子家が「鄘風」にある「載馳」の第4章を歌って魯のとりなしを期待する旨を寓すると、季文子は、「小雅」にある「采薇」の第4章を歌ってまた晋に足を運ぶ意を寓した[注釈 2]。穆公は、これに拝謝して、文公は、これに答拝した[6][7]

文公15年(紀元前612年)春、季文子は、単伯と子叔姫中国語版の釈放の口添えのために[注釈 3]晋に赴いた[8][9]。同年、単伯は釈放されて斉から魯に至り[10][11]、12月には、匡王の命によって子叔姫が釈放されて魯に帰国した[12][13]

同年、斉の懿公が魯の西郊を侵犯した[14][15]。文公16年(紀元前611年)春、魯と斉は講和することとなったが、文公が病を得たため、季文子を派遣して、陽穀にて斉の懿公と会合させた。季文子が結盟を請うたところ、懿公は承知せず、文公の快復を待ちたいと述べた[16][17]。同年6月、文公は、東門襄仲中国語版(公子遂)を派遣して、郪丘にて懿公と結盟させた[18][19]

文公18年(紀元前609年)、中国語版紀公中国語版が国人によって弑された[20]。紀公には、太子僕があったが、後に季佗(後の厲公中国語版)が生まれると、太子僕を廃した。太子僕は、国人を動かして紀公を弑し、宝玉とともに魯に来奔して魯の宣公にこれを献上した。しかし、季文子は、太子僕が礼に反していることを理由に、司寇に命じて太子僕を国外に追放した[21]

宣公元年(紀元前608年)夏、季文子は、斉に赴き、恵公との会合を請うた[22][23]。同年、宣公は、平州にて斉の恵公と会合した[24][25]

宣公の即位後、子家(公孫帰父中国語版)は、父の襄仲(公子遂)が宣公を擁立した因縁から、三桓氏を除いて公室の勢力を伸張しようと考えていた。そこで、子家は、晋に赴き、晋を利用して三桓氏を除くことを計画した。宣公18年(紀元前591年)冬に宣公が没すると、季文子は、朝廷において、「太子悪中国語版を殺して庶子(宣公)を擁立したのは襄仲である」と述べた。臧許中国語版(臧宣叔)はこれを聞いて怒り、「当時、襄仲の罪を裁けなかったからといって、その子である子家に罪はない。どうしても子家を除きたければ、司寇である私に任せてほしい」と述べ、襄仲の東門氏を放逐した。晋に赴いていた子家は、笙まで戻ったところで事態を知り、斉に逃れた[26][27]

成公2年(紀元前589年)春、斉の頃公が魯の北郊を侵犯した。同年6月、季文子・臧許・叔孫僑如(叔孫宣伯)・子叔嬰斉中国語版(公孫嬰斉、子叔声伯)は、軍を率いて晋の郤克孫良夫中国語版公子首中国語版とともに会同し、鞍の戦い中国語版で斉軍を破った[28]

成公4年(紀元前587年)夏、成公が晋に赴いた際、晋の景公が敬に欠けていたため、季文子は、晋侯はきっと無事には死ねないであろうと述べた[29]。同年秋、成公が晋から帰国すると、に和議を求めて晋から離反しようとした。季文子がこれを諌めたところ、成公は、晋から離反することを取りやめた[30]

成公6年(紀元前585年)冬、季文子は、晋の遷都を祝うために晋へ赴いた[31][32]

成公8年(紀元前583年)春、晋の景公は、韓穿中国語版を魯に派遣して、汶陽の地を斉に返還させた[33]。この時、季文子は、韓穿に対し、汶陽の地がもともと魯の領地であり、これを一時的に斉に奪われたものの、鞍の戦いでの勝利によって、晋が斉に命じてこれを魯に返還させたという経緯を説いた[34]。この結果、諸侯が晋から離反したため、晋は、成公9年(紀元前582年)、蒲で会合し、成公7年(紀元前584年)の馬陵の盟を温め直すこととなった[35]

同年(成公8年)、晋の士燮(范文子)が魯へ来訪し、への侵攻を通告した。これは、成公7年(紀元前584年)に郯がに服従したからであった。成公は、出兵を遅らせてほしい旨を士燮に対して請うたが、士燮は、これを拒絶した。そのため、季文子は、後難を恐れて、叔孫僑如を派遣して郯を攻撃させた[36]

成公9年(紀元前582年)2月、宣公の公女伯姫共公に嫁いだ[37]。同年夏、季文子が伯姫を宋へ送り届け、復命すると、伯姫の母である穆姜は、季文子の忠勤に対して感謝を述べた[38]

成公11年(紀元前580年)、晋の郤犨が来訪すると、同年夏、季文子は、その答礼のため、晋に赴いた[39][40]

成公16年(紀元前575年)、鄢陵の戦いに際して、叔孫僑如は、穆姜と通じて、季文子と仲孫蔑中国語版(孟献子)を排除しようとしたが、成公は、聞き入れなかった。成公は、壊隤にて待機している間に、仲孫蔑を都に留めて警備を強化させたため、鄢陵の戦いの当日になって壊隤を出発することとなり、出発が遅れることとなった。そのため、叔孫僑如は、晋の郤犨に使者を派遣し、成公が壊隤にて待機していたのは、晋と楚のどちらが勝つかを日和見していたからだと晋の厲公に対して讒言させた[41]。その後、潁上の戦い中国語版に際して、叔孫僑如は、晋の郤犨に対して再び使者を派遣し、魯に季氏と孟氏があるのは、晋に欒氏と范氏があるがごときものであると述べ、郤犨が季文子を、叔孫僑如が仲孫蔑をそれぞれ殺害することを提案した。その結果、同年9月、季文子は逮捕されることとなった。成公は、季文子が逮捕されたと聞いて、公孫嬰斉を晋に派遣し、季文子を釈放するよう求めた。晋の郤犨は、公孫嬰斉に対し、魯の国政を担当する権限や、封邑を与える旨を提案したが、公孫嬰斉はこれに屈することはなかった。晋の士燮は、欒書(欒武子)に対し、季文子と公孫嬰斉がいずれも忠良なる人物であることを説いて、その結果、季文子は釈放されることとなった[42]。同年冬10月、叔孫僑如は魯から追放され、斉へと逃亡した[43]。同年12月、季文子は、扈において晋の郤犨と盟を交わし、帰国するや、公子偃中国語版を殺害した。また、叔孫僑如の弟である叔孫豹中国語版(叔孫穆子)を斉から呼び戻し、叔孫氏の後嗣とした[44]

成公18年(紀元前573年)、楚が宋に侵攻した際、晋の士魴中国語版が魯に来訪し、出兵を請うた。季文子が臧武仲中国語版に対して出兵の数を尋ねたところ、臧武仲は、成公17年(紀元前574年)に鄭に侵攻した際には下軍の佐である智罃(智武子)が来訪しており、今般、同様に下軍の佐である士魴が来訪したということは、鄭に侵攻した際と同じ兵数を出兵させればよいと進言したため、季文子は、これに従った[45]

襄公2年(紀元前571年)夏、成公の妻である斉姜が没した。かつて、穆姜は、自らのために立派な棺を作らせていたが、季文子は、穆姜を恨んでいたため、これを取り上げて、斉姜の葬儀に用いた[46]

襄公4年(紀元前569年)秋、襄公の母である定姒中国語版が没した。季文子は、定姒の葬礼を簡略にしたため、匠慶が諫言した。季文子が自らの棺に使うための木を植えていたため、匠慶がこれを定姒の棺材とするよう求めたところ、季文子は、簡略にせよと述べたが、匠慶が棺材として用いることを禁止することはなかった[47]

襄公5年(紀元前568年)、季文子が没した。季氏の家宰が葬礼の準備をしたが、家中には絹の着物を着た妾などはおらず、質素な暮らしぶりであった。これによって、宣公・成公・襄公の三代にわたって君主を補佐した季文子に蓄財が全くないことは忠のあらわれであると評された[48]

脚注

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注釈

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  1. ^ 小倉芳彦訳『春秋左氏伝(上)』(岩波文庫、1988年)370頁。
  2. ^ 小倉芳彦訳『春秋左氏伝(上)』(岩波文庫、1988年)370頁。
  3. ^ 小倉芳彦訳『春秋左氏伝(上)』(岩波文庫、1988年)376頁。

出典

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  1. ^ 春秋左氏伝』「文公六年」経:夏,季孫行父如陳。
  2. ^ 『春秋左氏伝』「文公六年」伝:夏,季文子聘于陳,且娶焉。
  3. ^ 『春秋左氏伝』「文公六年」経:秋,季孫行父如晋。
  4. ^ 『春秋左氏伝』「文公六年」伝:秋,季文子將聘於晋,使求遭喪之禮以行。其人曰:『將焉用之?』文子曰:「備豫不虞,古之善教也。求而無之,實難。過求何害?」
  5. ^ 『春秋左氏伝』「文公十二年」経:冬,十有二月,戊午,晋人・秦人,戰于河曲,季孫行父帥師,城諸及鄆。
  6. ^ 『春秋左氏伝』「文公十三年」経:十有二月,己丑,公及晋侯盟,公還自晋,鄭伯會公于棐。
  7. ^ 『春秋左氏伝』「文公十三年」伝:冬,公如晋朝且尋盟,衛侯會公于沓,請平于晋,公還,鄭伯會公于棐,亦請平于晋,公皆成之,鄭伯與公宴于棐,子家賦鴻雁,季文子曰,寡君未免於此,文子賦四月,子家賦載馳之四章,文子賦采薇之四章,鄭伯拜,公答拜。
  8. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」経:春,季孫行父如晋。
  9. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」伝:春,季文子如晋,為單伯與子叔姫故也。
  10. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」伝:單伯至自齊。
  11. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」経:齊人許單伯請而赦之,使來致命,書曰,單伯至自齊,貴之也。
  12. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」伝:十有二月,齊人來歸子叔姫。
  13. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」経:齊人來歸子叔姫,王故也。
  14. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」伝:齊侯侵我西鄙,遂伐曹,入其郛。
  15. ^ 『春秋左氏伝』「文公十五年」伝:齊侯侵我西鄙,謂諸侯不能也,遂伐曹,人其郛,討其來朝也,季文子曰,齊侯其不免乎,己則無禮,而討於有禮者,曰,女何故行禮,禮以順天,天之道也,己則反天,而又以討人,難以免矣,詩曰,胡不相畏,不畏于天,君子之不虐幼賤,畏于天也,在周頌曰,畏天之威,于時保之,不畏于天,將何能保,以亂取國,奉禮以守,猶懼不終,多行無禮,弗能在矣。
  16. ^ 『春秋左氏伝』「文公十六年」経:春,季孫行父會齊侯于陽穀,齊侯弗及盟。
  17. ^ 『春秋左氏伝』「文公十六年」伝:春,王正月,及齊平,公有疾,使季文子會齊侯于陽穀,請盟,齊侯不肯,曰,請俟君間。
  18. ^ 『春秋左氏伝』「文公十六年」経:六月,戊辰,公子遂及齊侯,盟于郪丘。
  19. ^ 『春秋左氏伝』「文公十六年」伝:公使襄仲納賂于齊侯,故盟于郪丘。
  20. ^ 『春秋左氏伝』「文公十八年」経:莒弑其君庶其。
  21. ^ 『春秋左氏伝』「文公十八年」伝:莒紀公子生大子僕,又生季佗,愛季佗而黜僕,且多行禮於國,僕因國人以弑紀公,以其寶玉來奔,納諸宣公,公命與之邑,曰,今日必授,季文子使司寇出諸竟,曰,今日必達,公問其故,季文子使大史克對曰,先大夫臧文仲,教行父事君之禮,行父奉以周旋,弗敢失隊,曰,見有禮於其君者事之,如孝子之養父母也,見無禮於其君者誅之,如鷹鸇之逐鳥雀也,先君周公制周禮曰,則以觀德,德以處事,事以度功,功以食民,作誓命曰,毀則為賊,掩賊為藏,竊賄為盜,盜器為姦,主藏之名,賴姦之用,為大凶德,有常無赦,在九刑不忘,行父還觀莒僕,莫可則也,孝敬忠信為吉德,盜賊藏姦為凶德,夫莒僕,則其孝敬,則弑君父矣,則其忠信,則竊寶玉矣,其人,則盜賊也,其器,則姦兆也,保而利之,則主藏也,以訓則昏,民無則焉,不度於善,而皆在於凶德,是以去之。昔高陽氏有才子八人,蒼舒,隤敳,檮戭,大臨,尨降,庭堅,仲容,叔達,齊聖廣淵,明允篤誠,天下之民,謂之八愷,高辛氏有才子八人,伯奮,仲堪,叔獻,季仲,伯虎,仲熊,叔豹,季貍,忠肅共懿,宣慈惠和,天下之民,謂之八元,此十六族也,世濟其美,不隕其名,以至於堯,堯不能舉,舜臣堯,舉八愷,使主后土,以揆百事,莫不時序,地平天成,舉八元,使布五教于四方,父義,母慈,兄友,弟共,子孝,内平,外成。昔帝鴻氏有不才子,掩義隱賊,好行凶德,醜類惡物,頑嚚不友,是與比周,天下之民,謂之渾敦,少皞氏有不才子,毀信廢忠,崇飾惡言,靖譖庸回,服讒蒐慝,以誣盛德,天下之民,謂之窮奇,顓頊有不才子,不可教訓,不知話言,告之則頑,舍之則嚚,傲狠明德,以亂天常,天下之民,謂之檮杌,此三族也,世濟其凶,增其惡名,以至于堯,堯不能去,縉雲氏有不才子,貪于飲食,冒于貨賄,侵欲崇侈,不可盈厭,聚斂積實,不知紀極,不分孤寡,不恤窮匱,天下之民,以比三凶,謂之饕餮,舜臣堯,賓于四門,流四凶族,渾敦,窮奇,檮杌,饕餮,投諸四裔,以禦螭魅,是以堯崩而天下如一,同心戴舜,以為天子,以其舉十六相,去四凶也,故虞書數舜之功曰,慎徽五典,五典克從,無違教也,曰,納于百揆,百揆時序,無廢事也,曰賓于四門,四門穆穆,無凶人也,舜有大功二十而為天子,今行父雖未獲一吉人,去一凶矣,於舜之功,二十之一也,庶幾免於戾乎。
  22. ^ 『春秋左氏伝』「宣公元年」経:夏,季孫行父如齊。
  23. ^ 『春秋左氏伝』「宣公元年」伝:夏,季文子如齊,納賂,以請會。
  24. ^ 『春秋左氏伝』「宣公元年」経:公會齊侯于平州。
  25. ^ 『春秋左氏伝』「宣公元年」伝:會于平州,以定公位。
  26. ^ 『春秋左氏伝』「宣公十八年」経:公孫歸父如晋。冬,十月,壬戌,公薨于路寢,歸父還自晋,至笙,遂奔齊。
  27. ^ 『春秋左氏伝』「宣公十八年」経:公孫歸父以襄仲之立公也,有寵,欲去三桓,以張公室,與公謀而聘于晋,欲以晋人去之。冬,公薨,季文子言於朝曰:使我殺適立庶,以失大援者,仲也夫,臧宣叔怒曰:當其時,不能治也,後之人何罪,子欲去之,許請去之,遂逐東門氏,子家還及笙,壇帷,復命於介,既復命,袒括髪,即位哭,三踊而出,遂奔齊,書曰,歸父還自晋,善之也。
  28. ^ 『春秋左氏伝』「成公二年」経:二年春,齊侯伐我北鄙。夏,四月,丙戌,衛孫良夫帥師,及齊師戰于新築,衛師敗績。六月,癸酉,季孫行父・臧許・叔孫僑如・公孫嬰齊,帥師會晋郤克・衛孫良夫・曹公子首,及齊侯戰于鞍,齊師敗績。
  29. ^ 『春秋左氏伝』「成公四年」伝:夏,公如晋,晋侯見公不敬。季文子曰:晋侯必不免。詩曰:敬之敬之,天惟顯思,命不易哉。夫晋侯之命,在諸侯矣,可不敬乎。
  30. ^ 『春秋左氏伝』「成公四年」伝:秋,公至自晋,欲求成于楚,而叛晋。季文子曰:不可,晋雖無道,未可叛也,國大臣睦,而邇於我,諸侯聽焉,未可以貳。史佚之志有之曰:非我族類,其心必異。楚雖大,非吾族也,其肯字我乎。公乃止。
  31. ^ 『春秋左氏伝』「成公六年」経:冬,季孫行父如晋。
  32. ^ 『春秋左氏伝』「成公六年」伝:冬,季文子如晋,賀遷也。
  33. ^ 『春秋左氏伝』「成公八年」経:八年春,晋侯使韓穿來言汶陽之田,歸之于齊。
  34. ^ 『春秋左氏伝』「成公八年」伝:八年春。晋侯使韓穿來言汶陽之田。歸之于齊。季文子餞之。私焉。曰。大國制義。以為盟主。是以諸侯懷德畏討。無有貳心。謂汶陽之田。敝邑之舊也。而用師於齊。使歸諸敝邑。今有二命。曰。歸諸齊。信以行義。義以成命。小國所望而懷也。信不可知。義無所立。四方諸侯。其誰不解體。詩曰。女也不爽。士貳其行。士也罔極。二三其德。七年之中。一與一奪。二三孰甚焉。士之二三。猶喪妃耦。而況霸主。霸主將德是以而二三之。其何以長有諸侯乎。詩曰。猶之未遠。是用大簡。行父懼晋之不遠猶。而失諸侯也。是以敢私言之。
  35. ^ 『春秋左氏伝』「成公九年」伝:為歸汶陽之田。故諸侯貳於晋。晋人懼。會於蒲。以尋馬陵之盟。季文子謂范文子曰。德則不競。尋盟何為。范文子曰。勤以撫之。寬以待之。堅疆以御之。明神以要之。柔服而伐貳。德之次也。是行也。將始會呉。呉人不至。
  36. ^ 『春秋左氏伝』「成公八年」伝:晋士燮來聘。言伐郯也。以其事呉故。公賂之。請緩師。文子不可。曰。君命無貳。失信不立。禮無加貨。事無二成。君後諸侯。是寡君不得事君也。燮將復之。季孫懼。使宣伯帥師會伐郯。
  37. ^ 『春秋左氏伝』「成公九年」伝:二月,伯姫歸于宋。
  38. ^ 『春秋左氏伝』「成公九年」経:夏,季文子如宋致女,復命,公享之,賦韓奕之五章,穆姜出于房,再拜曰:大夫勤辱,不忘先君,以及嗣君,施及未亡人,先君猶有望也,敢拜大夫之重勤,又賦緑衣之卒章而入。
  39. ^ 『春秋左氏伝』「成公十一年」経:夏,季孫行父如晋。
  40. ^ 『春秋左氏伝』「成公十一年」伝:夏,季文子如晋報聘,且蒞盟也。
  41. ^ 『春秋左氏伝』「成公十六年」伝:戰之日。齊國佐。高無咎。至于師。衛侯出于衛。公出于壞隤。宣伯通於穆姜。欲去季孟。而取其室。將行。穆姜送公。而使逐二子。公以晋難告。曰。請反而聽命。姜怒。公子偃・公子鉏。趨過指之曰。女不可。是皆君也。公待於壞隤。申宮儆備。設守而後行。是以後。使孟獻子守于公宮。秋。會干沙隨。謀伐鄭也。宣伯使告郤犨曰。魯侯待于壞隤。以待勝者。郤犨將新軍。且為公族大夫。以主東諸侯。取貨于宣伯。而訴公于晋侯。晋侯不見公。
  42. ^ 『春秋左氏伝』「成公十六年」伝:宣伯使告郤犨曰。魯之有季孟。猶晋之有欒范也。政令於是乎成。今其謀曰。晋政多門。不可從也。寧事齊楚。有亡而已。蔑從晋矣。若欲得志於魯。請止行父而殺之。我斃蔑也。而事晋。蔑有貳矣。魯不貳。小國必睦。不然。歸必叛矣。九月。晋人執季文子于苕丘。公還。待于鄆。使子叔聲伯請季孫于晋。郤犨曰。苟去仲孫蔑而止季孫行父。吾與子國。親於公室。對曰。僑如之情。子必聞之矣。若去蔑與行父。是大棄魯國。而罪寡君也。若猶不棄。而惠徼周公之福。使寡君得事晋君。則夫二人者。魯國社稷之臣也。若朝亡之。魯必夕亡。以魯之密邇仇讎。亡而為讎。治之何及。郤犨曰。吾為子請邑。對曰。嬰齊。魯之常隸也。敢介大國。以求厚焉。承寡君之命以請。若得所請。吾子之賜多矣。又何求。范文子謂欒武子曰。季孫於魯。相二君矣。妾不衣帛。馬不食粟。可不謂忠乎。信讒慝而棄忠良。若諸侯何。子叔嬰齊奉君命無私。謀國家不貳。圖其身不忘其君。若虚其請。是棄善人也。子其圖之。乃許魯平。赦季孫。
  43. ^ 『春秋左氏伝』「成公十六年」伝:冬,十月,出叔孫僑如而盟之,僑如奔齊。
  44. ^ 『春秋左氏伝』「成公十六年」伝:十二月,季孫及郤犨盟于扈,歸刺公子偃,召叔孫豹于齊而立之。
  45. ^ 『春秋左氏伝』「成公十八年」伝:晋士魴來乞師。季文子問師數於臧武仲。對曰。伐鄭之役。知伯實來。下軍之佐也。今彘季亦佐下軍。如伐鄭可也。事大國無失班爵。而加敬焉禮也。從之。
  46. ^ 『春秋左氏伝』「襄公二年」伝:夏。齊姜薨。初。穆姜使擇美檟。以自為櫬。與頌琴。季文子取以葬。君子曰。非禮也。禮無所逆。婦養姑者也。虧姑以成婦。逆莫大焉。詩曰。其惟哲人。告之話言。順德之行。季孫於是為不哲矣。且姜氏。君之妣也。詩曰。為酒為醴。烝畀祖妣。以洽百禮。降福孔偕。
  47. ^ 『春秋左氏伝』「襄公四年」伝:秋。定姒薨。不殯于廟。無櫬。不虞。匠慶謂季文子曰。子為正卿。而小君之喪不成。不終君也。君長。誰受其咎。初。季孫為己樹六檟於蒲圃東門之外。匠慶請木。季孫曰。略。匠慶用蒲圃之檟。季孫不御。君子曰。志所謂多行無禮。必自及也。其是之謂乎。
  48. ^ 『春秋左氏伝』「襄公五年」伝:季文子卒。大夫入斂。公在位。宰庀家器為葬備。無衣帛之妾。無食粟之馬。無藏金玉。無重器備。君子是以知季文子之忠於公室也。相三君矣。而無私積。可不謂忠乎。

参考文献

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  • 春秋左氏伝
  • 小倉芳彦訳『春秋左氏伝(上)』(岩波文庫、1988年)
  • 小倉芳彦訳『春秋左氏伝(中)』(岩波文庫、1989年)

関連項目

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先代
季友
の三桓・季孫氏当主
2代
次代
季孫宿