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荘公 (魯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荘公 姫同
第16代公
王朝
在位期間 前693年 - 前662年
都城 曲阜
姓・諱 姫同
諡号 荘公
生年 桓公6年9月24日[1]
前706年10月5日
没年 荘公32年8月5日[2]
前662年8月11日
桓公
文姜
后妃 哀姜

荘公(そうこう)は、春秋時代の第16代君主。名は同。桓公の子で、桓公の後を受けて魯国の君主となった。在位32年(紀元前693年 - 紀元前662年)。

経歴

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桓公6年(紀元前706年)9月丁卯誕生。この日は父桓公と同じ誕生日であったことから、と名づけられる。

桓公18年(紀元前694年)、桓公がで横死すると魯公の座に就き、12月に桓公を弔う。

荘公8年(紀元前686年)、斉の公子糾中国語版管仲が魯に亡命してきた。翌年、斉の桓公が兵を発して魯軍を撃破すると、魯は糾を殺害した。斉は魯に管仲の身柄をよこすよう要求した。魯の施伯は斉が管仲を重く用いようとしていると見抜き、魯の不利になるので管仲を殺すよう荘公に勧めたが、荘公は聞き入れず、管仲を斉にかえした。

荘公13年(紀元前681年)、荘公は斉の桓公と柯で会合した。このとき曹沬が桓公を脅し、斉が奪った魯の土地を返還するよう要求した。桓公が返還を約束すると、曹沬は桓公を釈放した。桓公は約束を破棄したいと考えたが、管仲の諫めを受けて、魯の土地を返還した。

荘公の夫人の哀姜は斉の人で、子がなかった。荘公は死に臨んで庶子の斑(あるいは般と作る)を後嗣に立てようとしたが、荘公の弟の叔牙が上の弟の慶父を立てるよう主張した。末弟の季友は斑の立嗣を支持して、荘公の名により叔牙に毒酒を飲ませて自殺させた。

荘公32年(紀元前662年)8月癸亥、荘公は病没する。享年45。これを受け、季友が斑を立てて魯君とした。10月、慶父が斑を殺し、荘公の庶子の啓を魯君とした。

家庭

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父親:

  • 桓公姫允(第15代魯公)

母親:

兄弟:

  • 慶父(孟孫氏祖、共仲)
  • 叔牙(叔孫氏祖、僖叔)
  • 季友(季孫氏祖、成季)

妃:

子女

紀年

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魯荘公 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 前693年 前692年 前691年 前690年 前689年 前688年 前687年 前686年 前685年 前684年
干支 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉
魯荘公 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 前683年 前682年 前681年 前680年 前679年 前678年 前677年 前676年 前675年 前674年
干支 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未
魯荘公 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 前673年 前672年 前671年 前670年 前669年 前668年 前667年 前666年 前665年 前664年
干支 戊申 己酉 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳
魯荘公 31年 32年
西暦 前663年 前662年
干支 戊午 己未

脚注

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  1. ^ 左伝』桓公六年九月丁卯条による。
  2. ^ 『左伝』荘公三十二年八月癸亥条による。

参考文献

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  • 韓兆琦『新譯史記讀本』、台北、三民書局、2008年2月初版
  • 程發軔『春秋人譜』、台北、台湾商務印書館、1995年1月二版