荘公 (魯)
表示
荘公 姫同 | |
---|---|
魯 | |
第16代公 | |
王朝 | 魯 |
在位期間 | 前693年 - 前662年 |
都城 | 曲阜 |
姓・諱 | 姫同 |
諡号 | 荘公 |
生年 |
桓公6年9月24日[1] (前706年10月5日) |
没年 |
荘公32年8月5日[2] (前662年8月11日) |
父 | 桓公 |
母 | 文姜 |
后妃 | 哀姜 |
荘公(そうこう)は、春秋時代の魯の第16代君主。名は同。桓公の子で、桓公の後を受けて魯国の君主となった。在位32年(紀元前693年 - 紀元前662年)。
経歴
[編集]桓公6年(紀元前706年)9月丁卯誕生。この日は父桓公と同じ誕生日であったことから、同と名づけられる。
桓公18年(紀元前694年)、桓公が斉で横死すると魯公の座に就き、12月に桓公を弔う。
荘公8年(紀元前686年)、斉の公子糾と管仲が魯に亡命してきた。翌年、斉の桓公が兵を発して魯軍を撃破すると、魯は糾を殺害した。斉は魯に管仲の身柄をよこすよう要求した。魯の施伯は斉が管仲を重く用いようとしていると見抜き、魯の不利になるので管仲を殺すよう荘公に勧めたが、荘公は聞き入れず、管仲を斉にかえした。
荘公13年(紀元前681年)、荘公は斉の桓公と柯で会合した。このとき曹沬が桓公を脅し、斉が奪った魯の土地を返還するよう要求した。桓公が返還を約束すると、曹沬は桓公を釈放した。桓公は約束を破棄したいと考えたが、管仲の諫めを受けて、魯の土地を返還した。
荘公の夫人の哀姜は斉の人で、子がなかった。荘公は死に臨んで庶子の斑(あるいは般と作る)を後嗣に立てようとしたが、荘公の弟の叔牙が上の弟の慶父を立てるよう主張した。末弟の季友は斑の立嗣を支持して、荘公の名により叔牙に毒酒を飲ませて自殺させた。
荘公32年(紀元前662年)8月癸亥、荘公は病没する。享年45。これを受け、季友が斑を立てて魯君とした。10月、慶父が斑を殺し、荘公の庶子の啓を魯君とした。
家庭
[編集]父親:
- 桓公姫允(第15代魯公)
母親:
兄弟:
妃:
子女
紀年
[編集]魯荘公 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 前693年 | 前692年 | 前691年 | 前690年 | 前689年 | 前688年 | 前687年 | 前686年 | 前685年 | 前684年 |
干支 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 |
魯荘公 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 前683年 | 前682年 | 前681年 | 前680年 | 前679年 | 前678年 | 前677年 | 前676年 | 前675年 | 前674年 |
干支 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 |
魯荘公 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
西暦 | 前673年 | 前672年 | 前671年 | 前670年 | 前669年 | 前668年 | 前667年 | 前666年 | 前665年 | 前664年 |
干支 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 |
魯荘公 | 31年 | 32年 | ||||||||
西暦 | 前663年 | 前662年 | ||||||||
干支 | 戊午 | 己未 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 韓兆琦『新譯史記讀本』、台北、三民書局、2008年2月初版
- 程發軔『春秋人譜』、台北、台湾商務印書館、1995年1月二版