妙安寺 (前橋市)
妙安寺 | |
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所在地 | 群馬県前橋市千代田町3-3-30 |
位置 | 北緯36度23分41秒 東経139度4分10秒 / 北緯36.39472度 東経139.06944度座標: 北緯36度23分41秒 東経139度4分10秒 / 北緯36.39472度 東経139.06944度 |
山号 | 一谷山 |
院号 | 最頂院 |
宗派 | 真宗大谷派 |
創建年 | 天福元年(1233年) |
開山 | 成然 |
別称 | 御里御坊 |
文化財 | 梵鐘(群馬県指定重要文化財)他 |
法人番号 | 7070005000189 |
妙安寺(みょうあんじ)は、群馬県前橋市にある真宗大谷派の寺院。
歴史
[編集]1233年(天福元年)、成然によって開山された。成然は親鸞の高弟「二十四輩」の一人で、俗名「九条幸実」という九条家出身の公卿であった。当時、幸実は下総国猿島郡一ノ谷村(現・茨城県猿島郡境町)に流されていた。そして常陸国茨城郡稲田(現・茨城県笠間市)に親鸞がいることを知り、親族でもあったため度々親鸞の下を訪れた。そして遂に親鸞に弟子入りし、「成然」を名乗ることになった[1]。
1232年(貞永元年)、親鸞は都に帰還することになり、成然は親鸞より形見の品々が渡され、新しい寺を創建して布教するように教示した。その後、成然は聖徳太子の霊夢を見て、猿島郡三村(現・茨城県坂東市)の太子ゆかりの最頂院跡地に寺を創建した[1]。
1590年(天正18年)、川越城の城主酒井重忠によって、川越に移転した。1601年(慶長6年)、酒井氏の前橋藩転封により前橋の現在地に移転した[1][2]。
なお、旧所在地の三村にも妙安寺が残っている。この寺も山号と院号が同じ「一谷山最頂院」であり、真宗大谷派に属している[3]。また成然が建てた寺として、一ノ谷の妙安寺もある。この寺は山号は同じで院号が異なる「一谷山大法院」であり、真宗大谷派に属している[4]。
1602年(慶長7年)、教如が東本願寺を創建した際、親鸞が当寺に残した親鸞本人の寿像を東本願寺に献上した。東本願寺は当寺に「御里御坊」の名を贈り、東本願寺建立に協力した徳川家康も当寺に貴重な品々を贈った。そういう経緯もあって、寺宝を数多く所有しており、その多くが文化財に指定されている[1][5]。
寺宝は疎開によって戦災を免れたが、伽藍は1945年(昭和20年)8月の前橋空襲で焼失した[2]。
文化財
[編集]- 梵鐘(群馬県指定重要文化財 昭和30年1月14日指定)[6]
- 絹本著色聖徳太子孝養像2幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色親鸞聖人旅姿像1幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色親鸞聖人像1幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色親鸞・成然両上人像1幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色成然上人像3幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色真宗七高祖像1幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色親鸞聖人縁起絵伝4幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 中啓伝狩野山楽筆扇面画1面(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 絹本著色九文人合作書画1幅(群馬県指定重要文化財 昭和60年6月25日指定)[6]
- 書跡豊臣秀吉和歌短冊(前橋市指定重要文化財 昭和39年12月22日指定)[7]
- 一谷山記録8冊(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 妙安寺筆録(最頂院成賢筆)1冊(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 妙安寺古系図1巻(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 一谷山最頂院妙安寺縁起上・下2巻(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 唯信鈔文意(伝成然筆)1冊(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 葵紋幕付本多佐渡守正信奉書写2張2通(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 親鸞寿像遷座関係書状28通(前橋市指定重要文化財 昭和60年3月27日指定)[7]
- 絹本著色十字名号(前橋市指定重要文化財 昭和61年6月6日指定)[7]
交通アクセス
[編集]- 中央前橋駅より徒歩9分。
周辺
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 群馬県高等学校教育研究会歴史部会 編『群馬県の歴史散歩(歴史散歩10)』山川出版社、2005年
- 前橋市史編さん委員会 編『前橋市史』 5巻、前橋市、1984年2月1日。