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奥田茂造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年明治19年〉5月2日[1] - 1960年昭和35年〉9月28日[2])は、日本の内務官僚三重県鈴鹿市長

経歴

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三重県飯南郡櫛田村(現在の松阪市)出身。1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業[1]1917年大正6年)、大蔵属となり、翌年に東京府属に転じた[3]1920年(大正9年)、高等文官試験に合格[3]秋田県北秋田郡長、同山本郡長、同事務官奈良県事務官、福井県事務官を歴任し、1932年(昭和7年)に北海道庁事務官・産業部長に就任した[3]。さらに佐賀県書記官・学務部長、山口県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)より川崎市助役を務めた[1]

その後、日本屑繊維配給統制株式会社社長、日本機下屑統制株式会社社長を務め[4]1943年(昭和18年)に初代鈴鹿市長に就任した。市長は1946年(昭和21年)まで務め、その後は公職追放となった[5]

脚注

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  1. ^ a b c 『早稲田大学紳士録』p.212
  2. ^ 鈴鹿市教育委員会 1989, 418頁.
  3. ^ a b c 『輓近大日本拓殖史』p.374
  4. ^ 『人事興信録』
  5. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛鈴鹿郡」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、482頁。NDLJP:1276156 

参考文献

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  • 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。 
  • 早稲田大学紳士録刊行会編『昭和十五年版 早稲田大学紳士録』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。 
  • 鈴鹿市教育委員会 編『鈴鹿市史 第3巻』鈴鹿市、1989年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572076