奥田茂造
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奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年〈明治19年〉5月2日[1] - 1960年〈昭和35年〉9月28日[2])は、日本の内務官僚。三重県鈴鹿市長。
経歴
[編集]三重県飯南郡櫛田村(現在の松阪市)出身。1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業[1]。1917年(大正6年)、大蔵属となり、翌年に東京府属に転じた[3]。1920年(大正9年)、高等文官試験に合格[3]。秋田県北秋田郡長、同山本郡長、同事務官、奈良県事務官、福井県事務官を歴任し、1932年(昭和7年)に北海道庁事務官・産業部長に就任した[3]。さらに佐賀県書記官・学務部長、山口県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)より川崎市助役を務めた[1]。
その後、日本屑繊維配給統制株式会社社長、日本機下屑統制株式会社社長を務め[4]、1943年(昭和18年)に初代鈴鹿市長に就任した。市長は1946年(昭和21年)まで務め、その後は公職追放となった[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『昭和十五年版 早稲田大学紳士録』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。
- 鈴鹿市教育委員会 編『鈴鹿市史 第3巻』鈴鹿市、1989年 。