奈古屋元忠
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永7年10月23日(1630年11月27日) |
別名 | 通称:与三右衛門、九郎右衛門、対馬 |
主君 | 毛利輝元→毛利就隆 |
藩 | 下松藩 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流奈古屋家 |
父母 | 父:奈古屋元堯 |
兄弟 |
元賀、元忠、 清広院(吉見氏家臣・後藤勘左衛門室) |
妻 | 神代忠兼の娘 |
子 |
隆忠、小方隆冬、十兵衛、保宣、隆豊、 長意、念誉、女(堀平左衛門の妻)、 女(村上就次の妻) |
奈古屋 元忠(なごや もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の毛利家家臣。下松藩家老。父は奈古屋元堯(毛利元堯)。兄に奈古屋元賀。子に奈古屋隆忠。通称ははじめ与三右衛門、後に九郎右衛門、対馬と名乗る。
生涯
[編集]毛利元就の家臣である奈古屋元堯の次男として生まれる。天正8年(1580年)に兄・元賀が戦死したため、奈古屋家の嗣子となったが、その後浪人となり、出雲国に居住した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利輝元が萩へ入った際に毛利家へ帰参し、知行200石を与えられる。
慶長7年(1602年)に輝元の次男・就隆が生まれると元忠の妹・清広院(実名・あつ。吉見氏家臣・後藤勘左衛門の妻)が就隆の乳母を務めたが、元忠も慶長9年(1604年)11月に就隆が萩城に移った際に福間元道や榎本元信と共に御抱守(養育係)を命じられた。元和3年(1617年)に就隆へ周防都濃郡3万石が与えられた際には元忠や福間が家老として付けられた。以後、奈古屋家は徳山藩の家老を務めることとなる。寛永7年(1630年)10月23日、死去。