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ウェーク (砲艦)

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太原 (砲艦)から転送)
ウェーク
「グアム」時代の写真(1927年12月15日)
「グアム」時代の写真(1927年12月15日)
基本情報
建造所 中華民国の旗 中華民国 上海江南造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 河川砲艦
艦歴
進水 1927年5月28日
就役 1927年12月28日
最期 1941年12月8日、日本海軍に降伏
除籍 1942年3月25日
改名 グアム→ウェーク(1941年1月23日)
要目
常備排水量 350 トン
全長 159フィート5インチ (48.59 m)
最大幅 27フィート1インチ (8.26 m)
吃水 5フィート3インチ (1.60 m)
主缶 ソーニクロフト式重油専焼水管缶×2基[1]
主機 直立三段膨張式レシプロ機関×2基
出力 1,900馬力 (1,400 kW)
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 14.5ノット (26.9 km/h)
乗員 70 名[1]
兵装 50口径3インチ速射砲×2基
ルイス式30口径0.3インチ機銃×8基
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ウェーク (USS Wake, PR-3)はアメリカ海軍河川砲艦英語版。就役時の艦名はグアム (USS Guam, PG-43) であったが、1941年1月に改名した。太平洋戦争開戦直後の12月8日上海黄浦江日本軍降伏した[2]鹵獲した日本海軍多々良(たたら)と改名し[3]中国大陸で活動する支那方面艦隊に所属した[4]。太平洋戦争終結後中華民国海軍戦利艦として接収し、太原と改名した。国共内戦により人民解放軍が運用した。

艦歴

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アメリカ海軍時代

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「グアム」は1927年5月28日に上海の江南造船所で進水し、同年12月28日に就役した。1928年には、ハルナンバーが PG-43 から PR-3に変更された。「グアム」や後に就役した「パナイ」など、アメリカ海軍の河川砲艦の第一の任務は自国民のおよびその他外国人の保護であり、次いで日本の動向を探る「スパイ船」「浮かぶ無電所[5]」としての役割であった。就役後一貫して所謂「揚子江パトロール英語版」の任務に就いていた「グアム」だったが、1937年7月に支那事変が勃発、日中戦争に発展すると、日本の脅威をまともに受けることとなった。1939年までには、「グアム」がどのような行動をとっても、日本の艦艇による「護衛」がつけられることとなった。

1941年1月下旬、「グアム」は新造大型巡洋艦にその名を譲って、「ウェーク」と改名された[注 1]。11月24日、「ウェーク」は漢口の海軍基地の閉鎖を命じられ、上海へ向かった[7]。 この頃、上海には支那方面艦隊古賀峯一中将)の旗艦である海防艦出雲」が[注 2]、上海に残っていた「ウェーク」およびイギリス砲艦「ペトレル英語版(HMS Peterel) 」と相対するような形で停泊しており、古賀中将はさらに駆逐艦」と砲艦「鳥羽」を呼び寄せ、外灘(ワイタン)内の公園に海軍陸戦隊の15センチ砲を据えて「ウェーク」と「ペトレル」を包囲する形とした[8]。10月28日には、長江を航行する船の船長などを務めていた経験のあるコロンブス・ダーウィン・スミス(Columbus Darwin Smith)が少佐として艦長に任命された[9]。この時期、定員55人であった「ウェーク」の乗員は14人に減らされていた[9]

12月6日、合衆国アジア艦隊長官のウィリアム・グラスフォード英語版提督は揚子江パトロール部隊を解散し、「ウェーク」は上海に、姉妹艦「ツツィラ」は重慶に残留した[10][注 3]

12月7日、スミス少佐のもとに日本の士官から「艦長と乗員のために七面鳥を渡したい」との申し出があった。この申し出には、「翌朝、艦長はどこにいるか」という問いかけもついていた。古賀中将は「ウェーク」と「ペテレル」を無傷で拿捕する腹積もりで、事前にあらゆる工作を以って両艦を上海に釘付けにしていたのである[8]。同日、スミス艦長は友人の家を訪問するため下艦した[13]

12月8日、日本軍が実施した南方作戦マレー作戦)に伴う日本軍のタイ進駐と、ハワイ諸島に対する真珠湾攻撃によって日米は開戦した。 8日未明、上陸中のスミス艦長は真珠湾攻撃に関する急報を受け、自宅から「ウェーク」に急行した[14]。なお捕虜になったスミスは、部下から「日本軍に降伏すべきか命令してくれ」という電話を受けたが、指示を出す前に切れてしまったと語っている[13]。その前後に、「出雲」から「ウェーク」と「ペテレル」に降伏勧告のための軍使(「ウェーク」へは支那方面艦隊参謀松本作次少佐[15])が派遣された[16]。「出雲」「蓮」「鳥羽」の三艦は「ウェーク」と「ペテレル」が歯向かえば即座に撃沈できるよう、あらかじめ砲の照準を両艦にに定めていた[8]。「ウェーク」では圧倒的な日本軍に取り囲まれては多勢に無勢と感じ、乗員による自沈の試みも成功しなかったため、ついに白旗を掲げて降伏した。乗組員は海軍陸戦隊によって武装解除された[16]朝日新聞は「(降伏)勧告文を見ただけでスミス艦長はあへなく降伏した」と伝えた[17][注 4]。「ウェーク」は第二次世界大戦で唯一降伏したアメリカ海軍の艦船となった。他方、「ペテレル」は艦長が降伏を拒絶したため、軍使の短艇が離艦した直後[13]、「出雲」「蓮」「鳥羽」などの砲撃で呆気なく撃沈された[18]。「ウェーク」は1942年3月25日に除籍された。スミスは捕虜収容所に収容されたが、後にほか2名とともに脱出した[19]

2011年現在、砲艦「ウェーク」以降に就役したアメリカ海軍の艦艇に、カサブランカ級航空母艦ウェーク・アイランド」を別にすると「ウェーク」と命名された艦艇は存在しない。

多多良(多々良)

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多々良
基本情報
運用者  大日本帝国海軍
艦種 河川砲艦
艦歴
就役 1942年12月15日
最期 1945年8月、米海軍により接収[1]
除籍 1945年9月30日
その後 1946年、中華民国に移管
要目
乗員 56 名[20][注 5]
兵装
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「ウェーク」の拿捕は、1941年12月8日午後1時の大本営発表で真珠湾攻撃の成功に続いて発表された。

ニ、帝国海軍は本八日未明上海に於て英砲艦「ペトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウェーキ」は同時刻我に降伏せり — 大本営海軍部発表 昭和16年12月8日午後1時

12月9日、支那方面艦隊報道部はスミス艦長以下乗組員やペトレル生存者を捕虜にした事を公表した[2]。「ウェーク」は1941年12月15日に日本海軍籍へ編入される。「多多良 (たたら)」[21]と命名され[注 7]、古賀長官以下が出席して甲板で命名式が行われた[22]。この艦名は、元寇において防塁が築かれた博多湾沿岸(多々良川下流)の地名に由来する[注 8]。 同日付で支那方面艦隊上海根拠地隊に編入された。佐世保鎮守府籍[24]。 20日、艦内神社として多々良神社がもうけられ、上海神社より御神体を奉安した[25]

1942年1月26日に江南造船所での艦内修理改造完了。備砲は後に日本軍の8センチ砲に交換、機銃はそのまま使用されたと言われている。大戦前半は主に上海、天生などに、後半は南京安慶九江などに警泊することが多くなった。

1944年10月10日、「多多良」は砲艦「鳴海」とともに第二十四砲艦隊を編成し、その旗艦となった[26]。この頃にはP-51などの襲撃を受けることも多くなっていったが、「多多良」と「鳴海」は空襲のたびに対空砲火の他に阻塞を揚げてこれに対抗した[27]

1945年1月1日から2月3日まで江南造船所で修理を行った後[27]、再び九江方面で行動。しかし、戦況悪化により砲艦隊にも被害が続出したので、全ての砲艦は上海に回航される事となった。「多多良」は「鳴海」とともに蕪湖で13ミリ連装機銃2基を陸揚げし[28]、無武装状態で上海に係留されたまま、無傷で終戦を迎えた。9月30日に日本海軍籍を除籍。

多多良艦長

(注)1944年10月1日以降は「砲艦長」。

  1. 安村対一 少佐:1941年12月15日[29] - 1943年2月1日[30]
  2. 赤木敏郎 少佐:1943年2月1日[30] - 1944年10月10日[31]
  3. (兼)赤木敏郎 少佐/中佐:1944年10月10日[31] - 1945年8月15日[32] (本職:第二十四砲艦隊司令)

太原

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太原
基本情報
運用者  中華民国海軍
艦種 河川砲艦
艦歴
就役 1946年(取得)
最期 1949年4月23日、中国人民解放海軍に投降。4月30日、南京・燕子磯にて空襲により破壊。
要目
テンプレートを表示

終戦後は中華民国軍が接収し、艦名を「太原 (RCS Tai Yuan) 」と改名。国共内戦再発後、1949年4月23日に中国人民解放軍海軍に投降し、4月30日、南京・燕子磯にて中華民国空軍の爆撃により撃沈された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 1941年上旬には、アラスカ級大巡の2番艦が「グアム」と命名された[6]
  2. ^ 竣工時は装甲巡洋艦(一等巡洋艦)だったが、日中戦争開戦時には海防艦に類別変更されていた。
  3. ^ 後日、「ツツィラ」はレンドリースにより中華民国海軍に譲渡された[11]イギリス海軍の砲艦3隻も、中華民国に譲渡されている[12]
  4. ^ 前述のようにスミス艦長は陸上にいた[14]。自艦に戻れなくなったあと、アメリカ領事館で捕虜になったとしている[13]。艦に残っていた先任将校が勧告文を見た「だけ」で降伏したかどうかは不明。
  5. ^ この数字は特修兵を含まない。
  6. ^ 1945年1月搭載
  7. ^ 報道では多々良との表現も見られる[4]
  8. ^ 軍艦多々良命名式[23]上海【一二・一五】支那方面艦隊報道部十二月十三日午後五時發表「十二月十五日午前十時(日本時間)上海に於て軍艦多々良(戰利艦ウエーキ)の命名式を擧行せらる/▲米艦ウエーキ帝国海軍に編入【一二・一五】大本營海軍部發表(十五日午前九時四十五分)開戰劈頭われに降服せる米軍艦ウエーキは帝國海軍軍艦籍に編入せられ軍艦「多々良」と命名せられたり/△大本營海軍報道部長談 開戰劈頭上海黄浦江上においてわれに降服した米軍艦ウェーキ號は本十二月十五日艦名を「多々良」と命名砲艦として帝國海軍艦籍に編入せられました 艦名多々良は弘安四年夏七月元軍十餘萬の襲來に對し鎭西の寡兵之を迎撃、御稜威の下全國民の殉國的團結は天佑と相待つて遂に元軍を殲滅した當時の大國難を見事に克服した歴史的戰捷の地名に因むものであります 今次の命名にあたり祖先の偉功を偲びつつここに砲艦一隻の増加を見たる事實を以て大東亞戰爭の首途を祝福するものであります 日本海軍が之まで敵國艦船を拿捕して艦隊に編入したのは日清日露兩戰役及び日獨戰爭當時に數艦ありそのうちの「見島」も老朽艦となつて艦籍から除外されたので、ウエーキ號改め「多々良」がその意味では現在唯一の更生敵艦である。(記事おわり)

出典

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  1. ^ a b c 世界の艦船 『日本海軍特務艦船史』、p. 103。
  2. ^ a b 撃沈、拿捕二百餘隻 支那沿岸 敵艦船を掃蕩”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.10. pp. 01. 2024年11月30日閲覧。
  3. ^ 鹵獲艦ウエーク 帝國海軍に編入「多々良」と命名”. Tairiku Shinpō 1941.12.14 Morning. pp. 01. 2024年11月30日閲覧。
  4. ^ a b 新艦名"多々良" 鹵獲米砲艦、我が艦隊に編入”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.14. pp. 02. 2024年11月30日閲覧。
  5. ^ 片桐 1993, p. 243.
  6. ^ New Cruiser To Be Named USS Hawaii(グアムについても言及)”. Nippu Jiji, 1941.03.20. pp. 11. 2024年11月30日閲覧。
  7. ^ 同盟旬報第5巻第33号(通号160号)昭和16年12月10日作成 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070032000  p.25〔 漢口の米砲艦下航 〕
  8. ^ a b c 木俣 1988, p. 251.
  9. ^ a b 長江パトロール, p. 415.
  10. ^ 同盟旬報第5巻第33号(通号160号)昭和16年12月10日作成 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070032000  p.26〔 米砲艦マニラに向ふ 〕、p.103〔 揚子江米艦引揚げ 〕
  11. ^ 同盟旬報第6巻第07号(通号170号)(昭和17年3月20日作成)(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070034000  p.67〔 「ツツイラ」號重慶に譲渡 〕
  12. ^ 同盟旬報第6巻第04号(通号167号)(昭和17年2月20日作成)(防衛省防衛研究所) 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070033400  p.102〔 三砲艦を重慶に譲渡 〕(ファルコンガネットサンドバイパー
  13. ^ a b c d ペテレル ウエーキ 兩艦俘虜と一問一答 舌卷く作戰の妙ペテレル號艦長語る/意表衝かれた開戰ウェーキ號艦長スミス少佐談”. Tairiku Shinpō 1942.01.24 Evening. pp. 02. 2024年11月30日閲覧。
  14. ^ a b 同盟旬報第6巻第03号(通号166号)昭和17年2月10日作成 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070033200  p.93〔 捕虜艦長記者團と會見 〕
  15. ^ 戦史叢書79, p. 352.
  16. ^ a b 同盟旬報第5巻第34号(通号161号)昭和16年12月20日作成 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070032200  p.14〔 ペテレル號撃沈、ウエーク號降伏 〕
  17. ^ 昭和16年12月9日 朝日新聞夕刊(8日発行)
  18. ^ 木俣 1988, p. 252.
  19. ^ 長江パトロール, p. 418.
  20. ^ 海軍定員令 昭和16年12月15日付 内令第1663号改正分 「第70表 砲艦定員表 其5」
  21. ^ 昭和16年12月15日付 達第387号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070113600 
  22. ^ (軍艦旗を掲げた多々良写真)”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.19. pp. 02. 2024年11月30日閲覧。
  23. ^ 同盟旬報第5巻第35号(通号162号)昭和16年12月30日作成 」 アジア歴史資料センター Ref.M23070032400  pp.54-55
  24. ^ 昭和16年12月15日付 内令第1662号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070154700 
  25. ^ 御神體を奉安 艦上、多々良神社鎭座祭(軍艦旗を掲げた多々良写真)”. Manshū Nichinichi Shinbun, 1941.12.19. pp. 02. 2024年11月30日閲覧。
  26. ^ 田村 2005, p. 132.
  27. ^ a b 田村 2005, p. 134.
  28. ^ 田村 2005, p. 135.
  29. ^ 昭和16年12月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第771号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083400 
  30. ^ a b 昭和18年2月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1046号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 
  31. ^ a b 昭和19年10月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1619号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  32. ^ 昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107000 

参考文献

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  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9 
  • 木俣滋郎「緒戦時の知られざる海戦」『戦勝の日々 緒戦の陸海戦記』潮書房〈丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ 8〉、1988年。 
  • 田村俊夫「元イタリア河用砲艦だった『鳴海』の生涯を徹底調査でたどる」『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ 51〉、2005年。ISBN 4-05-604083-4 
  • ケンプ・トリー 著、長野洋子 訳『長江パトロール 中国におけるアメリカ海軍』出版共同社、1988年。ISBN 4-87970-048-7 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 編『中国方面海軍作戦<2>昭和十三年四月以降』朝雲新聞社〈戦史叢書 79〉。 
  • 朝日新聞:昭和16年12月9日夕刊(8日発行)
  • 世界の艦船 増刊第47集 『日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
  • 」編集部 編『写真 日本の軍艦9 軽巡II』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)

関連項目

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外部リンク

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