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天竹神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天竹神社

拝殿
所在地 愛知県西尾市天竹町池田53
位置 北緯34度49分49.59秒 東経137度3分34.42秒 / 北緯34.8304417度 東経137.0595611度 / 34.8304417; 137.0595611 (天竹神社)座標: 北緯34度49分49.59秒 東経137度3分34.42秒 / 北緯34.8304417度 東経137.0595611度 / 34.8304417; 137.0595611 (天竹神社)
主祭神 新波陀神(棉祖神)
創建 1883年明治16年)5月24日
主な神事 棉祖祭(10月第4日曜日)
地図
天竹神社の位置(愛知県内)
天竹神社
天竹神社
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天竹神社外観(2018年平成30年)9月)

天竹神社(てんじくじんじゃ)は、愛知県西尾市にある神社である。

概要

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平安時代、この地に崑崙人(チャム人)が漂着し、綿が伝えられたという伝承があることから、日本で数少ない「綿」に関する神社である。

沿革

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祭神

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新波陀神
この地に漂着した崑崙人を綿の神としたものである[1]。新波陀(にいはた)は綿を意味するという[注 1]

神事

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棉祖祭
10月の第4日曜日に行われる神事。
古式の道具を用い棉打ちの儀式が行われる[1]。また、崑崙人が船で漂着したことにちなんで、船神輿が担がれる[1]

綿伝来の伝承

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日本後紀』、『類聚国史』、『大日本史』などに、以下のような内容の記述がある。

延暦18年(799年)、三河国幡豆郡(現在の矢作古川の河口付近)に1艘の小船が漂着した。その船には1人の若者が乗っていたが、全く言葉が通じなかった。布で背を覆ってふんどしをつけ、左肩に袈裟に似た紺色の布を着けた服装であった。所持品は一弦琴[注 2]綿の種子が入っていた壺[注 3]などであった。唐人は「彼は崑崙人だ」と言ったという。その後、この漂着者は言葉を習い、自分は天竺からやってきたことを伝えたという[2]が、実際どこからやってきたかは、東南アジア、ペルシアなどの説もある。

崑崙人はこの地に住み、住民に綿の栽培を伝えた。さらに紀伊国淡路国阿波国讃岐国伊予国土佐国筑前国などで栽培方法を伝えた[注 4]後、近江国分寺で僧侶となったという。

崑崙人が漂着した地は天竺と改称され、その後「天竹」となったという。

交通機関

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脚注

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  1. ^ チャム語で「ニーパハ(Ni Pah)」は「これは綿だ」の意となる。
  2. ^ 詳細は不明。チャム族の一弦琴であるカニー(Kanyi)と推測される。ダン・ニーベトナム語Đàn nhị / 彈二)は「二弦」の意であるが、この名称はカニーに由来するものと思われ、「二」といいながら一弦である。
  3. ^ 現在は天竹神社内の資料館に保管されている。
  4. ^ この綿の栽培は上手くいかず、9世紀頃には廃れたという。一説では、愛知県で栽培されている地綿は、この伝えられた綿のことという。

出典

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