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大田正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大田 正一
おおた しょういち
生誕 (1912-08-23) 1912年8月23日
日本の旗 日本 山口県熊毛郡室津村
死没 (1994-12-07) 1994年12月7日(82歳没)
日本の旗 日本 京都府京都市左京区
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1928 - 1945
最終階級 大尉
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大田 正一(おおた しょういち、1912年大正元年〉8月23日 - 1994年平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉特攻兵器桜花の発案者。終戦後に逃亡を図りその後も正体を隠して3人の子をもうけ生きながらえた。

生涯

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1912年8月23日山口県熊毛郡室津村(現・上関町)に生まれる。名古屋で育ち、高等小学校卒業後、1928年(昭和3年)6月海軍普通科電信術練習生を志願して呉海兵団に入団[1]

航空偵察員

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1932年(昭和7年)4月、第20期偵察練習生に採用され、半年課程後に艦上攻撃機の「偵察員」になる。海軍では、操縦員以外で航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼んでおり、兵曹水兵の中から募集した「操縦練習生」(略して操練)、「偵察練習生」(略して偵練)の教育を行っていた[2]

偵練同期の馬場政春によると、大田の成績は中位だったが、頭の切れるアイデアマンで、敵飛行機の進路前方にロケットで網を打ちあげて落す奇策を語っていたという。教員の川合誠によると、大田は四年で満期をとって満州へ行き、馬賊相手の商売をやりたいと話していたという[3]

日華事変には中型陸上攻撃機の偵察員として参加。同僚の山田猛夫によると、大田は敵首都の重慶に落下傘部隊を降下させるべしとの意見書を分隊長飛行長に上申して採用されなかったという(上陸部隊と連携がない玉砕)[4]

1940年(昭和15年)5月1日航空兵曹長に進級、2日付けで予備役となるが、即日招集により木更津海軍航空隊の偵察教官を務める。1943年(昭和18年)3月第三艦隊司令部附。その後、第十一航空艦隊司令部附。一式陸上輸送機(一式陸上攻撃機派生型)の機長(偵察員)としてラバウル方面に出動、連絡や輸送業務に従事。1943年8月特務少尉に進級。

桜花

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桜花の着想は、大田が陸軍で母機から投下するロケット推進の有翼誘導弾が開発されているとの情報を得て、製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞き出し、誘導装置の精度が悪く実用化には程遠いと知り、誘導装置を人間に置き換えるのが一発必中を実現する早道だと確信して、東大に足を運んだところから軌道に乗る[5]

大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった[注釈 1]。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。」という[6]

1944年(昭和19年)5月、厚木基地で開隊された第1081海軍航空隊に着任。大田は毎日第一種軍装に革靴を提げた姿で出かけていた[7]。大田は司令の菅原英雄中佐に対して桜花の構想を明かして、菅原司令は任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長和田操中将に電話で技術上の検討を依頼する。菅原と大田は以前に舞鶴空で分隊長と先任下士官の間柄であった[8]

5、6月頃菅原司令の推薦によって、大田は和田中将に桜花を提案した[9]。航空技術廠三木忠直技術少佐の戦後証言によれば、和田中将はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという[8]。もっとも、三木忠直技術少佐は戦中のインタビューでは、「ドイツのV一号に呼応して我がロケット兵器の研究もまた全力をあげて行われていた。しかしV一号の目標は地上の間であるが、我が目標は空母、戦艦、輸送船の海上の点である。目標に対して一発必中の成果を上げるためにはV一号の如く無人機では到底不可能である。どうしても人力を借りねばならない。だが、人の力を借りれば必中と同時に必死である。ここに悩みがあった。この悩みを解決したのが大田正一中尉(当時少尉)である。『 V一号に人間が乗ってゆくことだ。先ず自分が乗ってゆく』と、烈々の至情を吐露して肉弾ロケット機『神雷』(桜花)を各方面に説き回った」と語っている[10]

和田から連絡を受けた航空本部2課長伊東裕満中佐に大田は「私が乗っていきます」と言った[8]。伊東中佐の感想は「これは部外で相当に研究されたものらしい」というものだった。また、「私は大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できる筈がないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」[11]「大田をパイロットと思い込んでいた。もし偵察員と知っていたら叱りつけて潰したと思う」と回想している[8]

8月初旬大田は東京帝国大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には木村秀政東大講師の風洞実験用木型の設計図と谷一郎東大教授担当の風洞実験データがつけられ、推進装置は三菱開発の呂号薬が採用された。その出来に伊東も驚いたという[12]

大田は1081空で下士官、兵のパイロット数十名を集めて「南方戦線について」の戦訓講話を行った。内容は見聞きしたラバウル、ソロモン、モレスビー方面戦況の実状と米軍の防御力の向上により、日本軍の損害ばかり多く戦果を上げることが困難となってきていることなどであった。次いで「今の戦局を挽回するには一機で一艦を確実に葬るしかないと考え、それには母機から発進してロケット進推進で敵艦に体当たりする飛行爆弾のような有人の小型機しかないのではないかとの考えに至った。これを上申すべく東京に一番近い部隊に転勤を希望し、軍令部に日参しておったのである。軍令部ではそのようなものを作っても乗る搭乗員がいないと相手にしてもらえない。そこで賛成する搭乗員がいることを証明したいので、貴様達の名前を貸してほしい」との趣旨の話を持ちかけ、質疑をする内に賛同者が徐々に増え、それを見た大田は取りまとめを堀江良二一飛曹に託した。堀江によれば、偵察員だから搭乗することもないと軽い気持ちで最初に署名して回すと、皆快く署名し、中には血判を推すものまでいたという[13]

8月最終的に軍令部も承認して、航空本部は発案者大田の名前から「○大(マルダイ)部品」(○の中に「大」の字)と名付け、研究試作が開始された[12]。自ら乗っていくと言った大田が決定後、「また新しい発明を考えて持ってきます」とケロリと言ったりしたことから、伊東中佐は「あんな奴の提案を採用するのではなかった」と悔やんだという[14]。1944年8月18日大田も航空技術廠付になる[15]

1944年(昭和19年)10月1日桜花の専門部隊第七二一海軍航空隊(神雷部隊)編成。大田も隊付となる[16]1945年(昭和20年)2月15日第七二二海軍航空隊(龍巻部隊)隊付。桜花搭乗員となるべく異例の取り計らいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが「適性なし」と判断された。

1945年3月21日の桜花による初戦果を報じた1945年5月28日の新聞で、大田は「命中率99パーセント、一発轟沈という今次大戦中最高の新兵器は、皇国の尽忠大義に生きるという魂があってこそできる。科学者達は特攻兵器の原理とか、その他の概念とかいったものについてはとっくの昔に分かっている。ただ自分がその兵器の実施者でないということに躊躇を感じ、将兵を必ず死に就かせることに気後れを感じているまでだと思う。だが戦局は躊躇などしている時でないと考える。将兵を殺すなどということを考えてはいけない。そういう事態ではない」と語っている[17]

桜花の使用が中止された7月頃、大田は方々に再開するように説いて回ったが、終戦まで再開されることはなかった[18]

戦後

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1945年8月15日終戦。16日、渋川侃二(東工大航空科学生・空技廠実習生)によれば、大田は「軍令部も航空本部にもあちこち足を運んだが、俺のようなスペ公(特務士官)の言うことなど真面目に聞いてくれなかった。東大の小川さんだけです。真剣に聞いてくれたのは」「こんな形でやるんなら真先に儂を行かせてくれと上申したのに駄目でした」と楽しそうに話していたという[19]8月18日茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に突然乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に「東方洋上に去る」と遺書を残した[20]。大田は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。また、戦犯の認識を勘違いしていたという説もある[21]

1945年9月5日付で722空司令渡辺薫雄大佐から大田の本籍である山口県熊毛郡室津村長へ「海軍軍人死亡の件報告」を送る。殉職として大尉に昇進。戸籍抹消。1956年11月20日呉地方役員部作成内地死没者名簿では「航空殉職」「戸籍抹消済」となっている[22]

しかし、1945年末、静岡県金谷町海仁会(海軍共済組合)住宅に住む川合誠(大田の偵練教員)の近所に、安田少佐が大田一家を連れてきて「大田は生きているらしいが、戦犯を心配して逃げ回っているそうだ、宜しく頼む」と川合に話した。大田本人も来て「今は樺太の引揚者として別の名前になっている」というので川合は妻時子の入婿になればいいと勧めたが、「実は他に女がいます。子供も一人」と答えた。大田は北海道で密輸物資をソ連領に運んでいると言っていた。時々北海道から来て、時子との間に二人の子供を作った。三男が生まれる前後の1949年(昭和24年)6月に北海道へ小豆を買いに行くと言って大金を持って消えてからは音信不通になった。そのため妻時子と三人の子女が残されて困窮し、川合がその面倒を見て恩給扶助料の手配をしたり、捜索願を出したりした[23]

また、大田は数々元同僚の前に現れていた。稲田正二は戦後間もなく何度か会って身の上話を聞いた。金華山沖の洋上で北海道の漁船に拾われ、北海道知事田中敏文に戸籍を新しく作ってもらったと話していたという。1950年(昭和25年)頃から見なくなったという[24]1947年(昭和22年)頃、山田猛夫は中国国民政府の駐日代表商震の手配で対中共戦の義勇空軍用パイロットを600人ぐらい集めていて、近く若松から密航して中国に渡るが参加しないかと大田から持ちかけられたという(誘われた者は他にもいた)。また、借金を申し込んだり傘を借りて消えるなどしている[25]

大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し漁船に救助され生還。行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて別人を装っていたが、生涯無戸籍のままであった[26][27]。「青木薫」を名乗り各地を転々とした後、「横山道雄」と名乗って大阪市で家庭を持ち二人の子供を儲けたが、無戸籍のため職を転々とした。家族には、自分の正体についてはほとんど語らなかった。1994年12月7日京都市左京区の日本バプテスト病院にて癌で死亡。墓石には妻の姓のみ刻まれており、大田自身の名は一切刻まれていない[26][27]

戦後、大田の桜花提案は上層部がボトムアップの形で特攻を進めるために作った隠れ蓑だったのではないかという陰謀論があった。しかしながら、大田の奔走、採用の過程など事実関係が明らかになるにつれて、その根拠は既になくなっている[注釈 2]。大田を追跡調査した作家秦郁彦は、大田の桜花発案の背後に誰かいると思っていたが、大田探しの過程で彼に対するイメージは少しずつ変わっていき、桜花の着想は大田のオリジナルだと思うようになったという[29]。作家柳田邦男も「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂でしかなかったのかも知れない」と結んでいる[30]

2016年3月19日、大阪の大田の妻と息子に取材したETV特集『名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~』がNHK教育テレビで放送された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 小川は後に特攻兵器梅花を発案した人物でもある。
  2. ^ 既述のような関係者の協力経緯が分かっていなかったことや提案から正式採用までを二週間とする誤認があったことが原因であった[28]

出典

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  1. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋348頁
  2. ^ 別冊歴史読本26 日本の軍隊 陸海軍のすべてがわかる 76〜81頁(新人物往来社、2008年)
  3. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋348-349頁
  4. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋349頁
  5. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫511頁
  6. ^ 海空会『海鷲の航跡』原書房43頁
  7. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社65頁
  8. ^ a b c d 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁
  9. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p6
  10. ^ 御田重宝『特攻』講談社401-402頁
  11. ^ 御田重宝『特攻』講談社397頁
  12. ^ a b 戦友会編『海軍神雷部隊』p7
  13. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社65-66頁
  14. ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身編』p59
  15. ^ 御田重宝『特攻』講談社402頁
  16. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p84
  17. ^ 御田重宝『特攻』講談社409-410頁
  18. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p479
  19. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫501頁
  20. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫500-501頁
  21. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社479頁
  22. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫500-501頁
  23. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋359頁
  24. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋356頁
  25. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋357頁
  26. ^ a b ETV特集『名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~』(2016年3月19日放送)
  27. ^ a b 神立尚紀 (2019年3月23日). “人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」”. 現代ビジネス. 講談社. 2019年3月23日閲覧。
  28. ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身編』文藝春秋58-59頁
  29. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文藝春秋360頁
  30. ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ 渾身編』文藝春秋60頁

参考文献

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第20章 「桜花」特攻 大田正一の謎 p499〜p533

関連項目

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外部リンク

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