大田原扶清
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄2年(1689年) |
死没 | 延享2年6月5日(1745年7月4日) |
改名 | 為之丞(幼名)、扶清 |
別名 | 命清(別名) |
戒名 | 泰岳院殿潔心良白大居士 |
墓所 | 栃木県大田原市の光真寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野国大田原藩主 |
氏族 | 大田原氏 |
父母 |
父:大田原晴川 養父:大田原清信、養母:松平昌勝の娘 |
妻 |
正室:水野勝政の養女(水野勝直の娘) 継室:伊田氏 |
子 |
建清、友清、英清(八男)、賢清(九男)、 元清(十一男)、 娘(本庄道矩正室、のち前田房長室) |
大田原 扶清(おおたわら すけきよ)は、下野大田原藩の第7代藩主。
元禄2年(1689年)、第2代藩主・大田原政清の六男・大田原晴川の長男として生まれる。元禄15年(1702年)11月に第6代藩主・清信が死去したため、その養子となり、元禄16年(1703年)2月5日に家督を継いだ。12月21日に従五位下・飛騨守に叙位・任官する。
宝永6年(1709年)5月、徳川家宣が第6代将軍に就任したとき、勅使の饗応役を務めた。正徳4年(1714年)9月から正徳5年(1715年)9月まで駿府城加番を務めている。延享2年(1745年)6月5日に江戸で死去した。享年57。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女