大岡忠固
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政5年12月14日(1794年1月15日) |
死没 | 嘉永5年6月20日(1852年8月5日) |
改名 | 捨五郎(幼名)→鈴木大学→大岡忠固 |
墓所 | 埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の龍門寺 |
官位 | 従五位下、主膳正 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、若年寄、普請奉行 |
藩 | 武蔵岩槻藩主 |
氏族 | 加納氏→鈴木氏→大岡氏 |
父母 | 父:加納久周、養父:大岡忠正 |
兄弟 | 加納久慎、有馬久保、忠正、本多忠和、忠固 |
妻 | 稲葉正諶の娘 |
子 |
忠恕、 娘(酒井忠良正室)、娘(堀田正修正室) |
大岡 忠固(おおおか ただかた)は、江戸時代後期の大名。武蔵岩槻藩第6代藩主。大岡忠房家9代当主。
生涯
[編集]寛政5年12月14日(1794年1月15日) 、伊勢八田藩第3代藩主・加納久周の五男として生まれる。初めは鈴木大学と名乗った。その後、三兄である岩槻藩主の大岡忠正に男子がいないため養子となり[1]、大岡忠固と名乗った。文化13年(1816年)8月28日に忠正が亡くなると家督を相続した。
文政4年(1821年)4月に日光祭礼奉行、翌文政5年(1822年)に奏者番を歴任する。天保7(1836年)8月、米価昂騰で領内で百姓一揆が起きたが、これを何とか沈静させた。同年9月、このような中で若年寄に栄進し、天保15年(1844年)5月に江戸城本丸の普請奉行を務め、その功により3000石を加増される。
またアヘン戦争で清が敗戦した影響により、幕命により江戸湾の警備のために大砲や小銃を鋳造し、藩領であった上総、安房に海上警備のために藩士を派した[2]。これにより藩の財政が逼迫した[3]。嘉永5年(1852年)、江戸に出向した公卿の接待役を勤め、江戸市中を案内し、その出来事を『船橋紀行』にまとめた。同年に病死。家督は三男の忠恕が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 稲葉正諶の娘
子女