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大岡忠喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大岡忠喜
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文3年11月27日1739年1月6日
死没 文化3年11月2日1806年12月11日))
別名 忠善
墓所 埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の龍門寺
官位 従五位下、兵庫
幕府 江戸幕府奏者番
武蔵岩槻藩
氏族 大岡氏
父母 父:大岡忠光
兄弟 忠喜加納久周巨勢至方
長君(牧野忠寛正室)、横田以松正室
正室:井上正経の養女(本多忠強の娘)
継室:田沼意次の養女(新見正則の娘)
忠要、娘(水野忠韶正室)、忠烈
娘(松平信圭正室)、美濃(三宅康友正室)、
娘(小笠原信喜養女)、娘(本多政房継室)、
娘(小笠原政恒継室)
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大岡 忠喜(おおおか ただよし)は、江戸時代中期の旗本大名。大岡忠房家5代当主で、武蔵国岩槻藩第2代藩主。忠善とも伝わるが、誤記と思われる。

生涯

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元文2年(1737年)、第9代将軍徳川家重側用人を務めた旗本・大岡忠光の長男として生まれた。宝暦3年(1753年)、将軍家重にはじめて御目見する。翌宝暦4年(1754年)、菊間広縁詰めとなり、従五位下兵庫頭に叙任する。宝暦10年(1760年)、父・忠光の死去により家督を継ぎ、岩槻藩主となる。同年、雁間詰めとなり、奏者番に就任する。安永元年(1772年)、病を理由に奏者番を辞す。安永5年(1776年)、10代将軍徳川家治が日光社参のために往復とも岩槻城に宿泊した際、藩を挙げて対応した。安永9年(1780年)5月、岩槻藩の飛び地である安房国朝夷郡国の商船が漂流すると、郡奉行であった藩士の児玉南柯を派遣して対応している。生来病弱であったため、天明2年(1782年)に家督を長男の忠要に譲って隠居した。文化3年(1806年)に死去。享年69。

系譜

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父母

正室、継室

子女