大口清行
表示
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 寛文10年(1670年)11月6日 |
改名 | 勝九郎→伊兵衛 |
別名 |
通称:伊兵衛 / 幼名:勝九郎 姓名:藤原清行 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 蜂須賀家 |
藩 | 阿波徳島藩 |
氏族 | 藤原秀郷流大口氏 |
父母 | 父:大口清秀、母:南半左衛門娘 |
兄弟 | 長濱義秀室、大口清行、村上玄節室、村上玄節後室、大口正普、先山尚親、大口久和、大口成房、村上弥一右衛門室 |
妻 |
渡瀬由則妹 後に山田権左衛門妹 |
子 | 大口清信、飯沼長高、先山親行室、梯政休、佐野利重室 |
大口 清行(おおぐち きよゆき、生年不詳 - 寛文10年(1670年)11月6日)は、江戸時代前期から江戸時代中期ごろにかけての武将[1]。仕阿波徳島藩系大口氏3代当主[1]。通称・伊兵衛[1]。
経歴
[編集]清行は、阿波徳島藩家臣の大口清秀の嫡男に生まれる[1]。母は南半左衛門の娘[1]。幼名を大口勝九郎といい、元服して大口伊兵衛清行と名乗る[1]。父の清秀とともに阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた[1]。
渡瀬由則の妹を正室としたが離別し、継室として叔父・大口信賢の友人である山田権左衛門の妹を迎え入れた[1]。
寛文8年(1668年)1月4日、父の清秀が病死すると家督を継ぎ、大口家の当主となって阿波国蜂須賀家の城下に弐百五十石(250石)を領するも、2年後の寛文10年(1670年)11月6日に病気で急死した[1]。
氏族
[編集]大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)の子孫である藤原秀郷の末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓は藤原であるため、正式な姓名は藤原清行である。清行の子孫も代々阿波徳島藩に仕えた[1]。だが清行の弟・大口成房は松平信綱に仕えて関東の武蔵国に移ったため、この代で大口家は阿波大口家と武蔵大口家に分かれた。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典