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大口清行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大口清行
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 寛文10年(1670年11月6日
改名 勝九郎→伊兵衛
別名 通称:伊兵衛 / 幼名:勝九郎
姓名:藤原清行
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家
阿波徳島藩
氏族 藤原秀郷大口氏
父母 大口清秀南半左衛門
兄弟 長濱義秀室、大口清行村上玄節室、村上玄節後室、大口正普先山尚親大口久和大口成房村上弥一右衛門
渡瀬由則
後に山田権左衛門
大口清信飯沼長高先山親行室、梯政休佐野利重
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大口 清行(おおぐち きよゆき、生年不詳 - 寛文10年(1670年11月6日)は、江戸時代前期から江戸時代中期ごろにかけての武将[1]。仕阿波徳島藩大口氏3代当主[1]通称伊兵衛[1]

経歴

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清行は、阿波徳島藩家臣の大口清秀嫡男に生まれる[1]南半左衛門[1]幼名大口勝九郎といい、元服して大口伊兵衛清行と名乗る[1]。父の清秀とともに阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた[1]

渡瀬由則正室としたが離別し、継室として叔父・大口信賢の友人である山田権左衛門の妹を迎え入れた[1]

寛文8年(1668年1月4日、父の清秀が病死すると家督を継ぎ、大口家の当主となって阿波国蜂須賀家の城下に弐百五十石(250石)を領するも、2年後の寛文10年(1670年)11月6日に病気で急死した[1]

氏族

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大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)子孫である藤原秀郷末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓藤原であるため、正式な姓名藤原清行である。清行の子孫も代々阿波徳島藩に仕えた[1]。だが清行の弟・大口成房松平信綱に仕えて関東武蔵国に移ったため、この代で大口家は阿波大口家と武蔵大口家に分かれた。

系譜

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脚注

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出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵