大久保忠明
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝2年(1674年) |
死没 | 元禄5年10月2日(1692年11月9日) |
別名 | 右近、左門 |
戒名 | 観明院殿日静 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 石川氏→大久保氏 |
父母 | 父:石川総良、母:本多忠義の娘 |
兄弟 | 総茂、忠明、女子(近藤徳用室) |
子 | 養子:総比 |
大久保 忠明(おおくぼ ただあきら)は、江戸時代前期から中期の旗本。曾祖父石川忠総の出自である大久保姓を名乗るが、3代総朋の代で石川姓に復した。伊勢神戸藩(後に常陸下館藩)支族である忠明系石川家(大久保家)は明治維新まで旗本家として続いた。
生涯
[編集]延宝2年(1674年)伊勢亀山藩石川家支藩2代(伊勢神戸藩2代)石川総良の次男として誕生した。父死去後、貞享2年9月2日(1685年9月29日)兄総茂から父の遺領の内より河内国石川郡・古市郡で3千石の分与を受け、旗本寄合席に列した。同月21日(10月18日)将軍徳川綱吉に拝謁した。桐間番、御小姓、中奥御小姓を勤め、元禄5年10月2日(1692年11月9日)死去した。父総良の従弟にあたる石川総昌の次男総比が家督を継いだ。
なお、河内の領国支配のため石川郡東山村(現大阪府南河内郡河南町東山)に陣屋(東山陣屋)が設けられた。