石川総昌
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 万治2年(1659年) |
死没 | 享保9年1月23日(1724年2月17日) |
別名 | 左近・兵庫の後監物、総能 |
戒名 | 総昌院殿観計日芳 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 石川氏(本姓:清和源氏) |
父母 | 父:石川総氏、母:高木正弘の娘 |
兄弟 | 総昌、某(隼人)、芦田賢詮(福井藩家老芦田家養子)、女子(北条氏澄室) |
妻 | 正室:石川義當の娘 |
子 | 安千代、千蔵、阿くま(近藤用相室)、大久保総比(大久保忠明養子)、総朗 |
石川 総昌(いしかわ ふさまさ)は、江戸時代前期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)2代。
生涯
[編集]万治2年(1659年)総氏の嫡男として誕生。母は河内丹南藩第3代藩主高木正弘の娘である。寛文10年7月12日(1670年8月27日)将軍徳川家綱に拝謁し、父の致仕を受け元禄8年7月9日(1695年8月18日)家督を継ぐ。
元禄11年10月1日(1698年11月3日)御書院番組頭を拝命し同年12月(1699年1月)布衣着用を許される。また、上野国・下野国に持つ所領が三河国額田郡・加茂郡に移され、所領4千石全てが三河の2郡内となる。
元禄16年2月(1703年3月)組下大久保忠賀の切腹[1]に伴い、小普請組に降格とされ閉門を仰せつかる。同年12月(1704年1月)赦免されるが翌宝永元年2月(1704年3月)漸く出仕を許される。享保4年6月(1719年7月)小普請組支配を命じられる。
享保6年7月(1721年8月)職を辞し旗本寄合席に列し、享保8年7月(1723年8月)病により致仕し、家督を嫡男である総朗に譲る。享保9年1月23日(1724年2月17日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。
脚注
[編集]- ^ 「元禄世間咄風聞集」 「7-9 大久保忠賀下女を凍死させ切腹」の項(岩波書店 1994年)
参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』