大久保忠宣
表示
時代 | 江戸時代 |
---|---|
死没 | 慶応4年(1868年) |
別名 | 四郎左衛門 |
官位 | 紀伊守 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠学 |
九代大久保忠宣(おおくぼ ただのぶ)[1]は、大久保玄蕃知行所の9代目にして最後の領主、上級旗本。6000石を知行し幕府大監察[2]を勤める。通称は四郎左衛門、紀伊守[3]。
慶応4年(1868年)彰義隊に加わり上野戦争で戦死した。享年50ほど[2]。
生涯
[編集]- 文久2年(1862年)[3]
- 12月6日 寄合より寄合肝煎
- 文久3年(1863年)[3]
- 3月5日 甲府勤番
- 文久3年(1863年)[3]
- 10月11日 神奈川奉行(2000石)
- 元治元年(1864年)[3]
- 8月3日 大目付
- 慶応元年(1865年)[3]
- 10月16日 思し召しにより、役を免ぜられ、差控の処分を受ける(寄合)
- 慶応3年(1867年)[3]
- 8月13日 寄合より元大目付 寄合肝煎再役
- 慶応4年(1868年)[3]
- 慶応4年(1868年)彰義隊に加わり上野戦争で銃弾を受け戦死[2]
彰義隊
[編集]忠宣は慶応4年(1868年)2月20日、駿府町奉行を旧幕府より罷免された後、彰義隊に加わる。江戸の警備を担っていたものの賊軍とされ、上野の寛永寺に立てこもり官軍と戦う。上野戦争の終盤、根本中堂前の最後の決戦時に、忠宣は残り100名の彰義隊を引き連れ、東照宮の旗を持ち官軍に立ちはだかるも、忠宣は額に砲弾を受け倒れる[2]。これを見て残った彰義隊は3人(天野八郎、新井鐐太郎、紀伊守家来の常助[5])だったという。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典 第1巻』(東洋書林、1997年)
- 森まゆみ『彰義隊遺聞』(新潮社、2004年)
- 木下宗一『上野戦争から五稜郭まで 彰義隊』(早川書房、1965年)
- 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)