大久保忠学
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時代 | 江戸時代 |
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死没 | 万延元年3月10日(1860年3月31日)[1] |
官位 | 紀伊守、兵庫頭、肥後守[2] |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠陽 |
子 | 忠宣 |
大久保 忠学(おおくぼ ちゅうがく)は、江戸時代後期の旗本、大久保玄蕃知行所の8代目領主。南本所三橋に1600坪の居屋敷があり、浜町に100坪の拝領屋敷、大久保新屋敷として500坪の拝領下屋敷があった[2]。万延元年(1860年)3月10日没。紀伊守、兵庫頭、肥後守の官名を用いた。通称、四郎左衛門、兵庫頭。
生涯
[編集]- 文政4年(1821年)
- 文政10年(1827年)
- 文政13年(1830年)
- 天保5年(1834年)
- 天保7年(1836年)
- 天保13年(1842年)
- 天保14年(1843年)
- 12月18日 思し召しにより役を免ずる[2]
- 安政2年(1855年) 寄合[2]
黒船来航
[編集]嘉永6年(1853年)ペリー率いる4船の軍艦が浦賀沖に来航した。同年12月、大久保は戦争に発展した場合に備え、各地の知行所に異国船御用の際に村の石高100石につき2人の人夫を大久保家の江戸屋敷に呼び寄せる旨通達した[3]。呼び出しが無ければ1両を返却するとの条件で、人夫には逗留金として1人につき2両渡した。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典 第1巻』(東洋書林、1997年)
- 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年)
- 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)
- 焼津市史編さん委員会『焼津市史 通史編 上巻』(2005年)