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多門信利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
多門信利
時代 江戸時代前期
生誕 慶長12年(1607年
死没 延宝4年4月15日1676年5月27日
改名 平次郎(幼名)→ 信勝(初名)→ 信利
別名 伝八郎(通称)
墓所 牛込法正寺
幕府 江戸幕府 大番 小普請奉行 御徒頭
主君 徳川家光家綱
父母 父:多門信清、母:羽太正次の娘
兄弟 女子(朝比奈真正室)、女子(榊原政重室)、信利重仲、女子(山城国松尾の神職守屋某室)
正室:大奥侍女某氏の養女
清董利正、娘(多門重共室)
養子:重共
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多門 信利(おかど のぶとし)は、江戸時代前期の旗本

生涯

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寛永元年(1624年)はじめて3代将軍徳川家光に謁見し、そののち大番に列し、切米200俵を賜る。寛永10年(1633年)2月2日には200石を加増、切米を改め相模国大住郡に400石の知行を賜った。そののち番を辞する。寛永13年(1636年)12月27日に大番に復し、翌寛永14年(1637年)9月18日には小普請奉行、寛永19年(1642年)4月11日より御徒頭になり、同年12月30日布衣の着用を許される。慶安4年(1652年)11月21日切米300俵を加えられ、万治3年(1660年)1月29日務めを辞し寄合に列する。延宝4年(1676年)4月15日死去。享年70。法名宗繁。

参考文献

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