多門信利
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長12年(1607年) |
死没 | 延宝4年4月15日(1676年5月27日) |
改名 | 平次郎(幼名)→ 信勝(初名)→ 信利 |
別名 | 伝八郎(通称) |
墓所 | 牛込法正寺 |
幕府 | 江戸幕府 大番 小普請奉行 御徒頭 |
主君 | 徳川家光→ 家綱 |
父母 | 父:多門信清、母:羽太正次の娘 |
兄弟 | 女子(朝比奈真正室)、女子(榊原政重室)、信利、重仲、女子(山城国松尾の神職守屋某室) |
妻 | 正室:大奥侍女某氏の養女 |
子 |
清董、利正、娘(多門重共室) 養子:重共 |
生涯
[編集]寛永元年(1624年)はじめて3代将軍徳川家光に謁見し、そののち大番に列し、切米200俵を賜る。寛永10年(1633年)2月2日には200石を加増、切米を改め相模国大住郡に400石の知行を賜った。そののち番を辞する。寛永13年(1636年)12月27日に大番に復し、翌寛永14年(1637年)9月18日には小普請奉行、寛永19年(1642年)4月11日より御徒頭になり、同年12月30日布衣の着用を許される。慶安4年(1652年)11月21日切米300俵を加えられ、万治3年(1660年)1月29日務めを辞し寄合に列する。延宝4年(1676年)4月15日死去。享年70。法名宗繁。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』 巻第485