塚本勝嘉
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塚本 勝嘉(つかもと かつよし、1847年12月27日(弘化4年11月20日) - 1912年1月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。幼名・琢磨。
経歴
[編集]大垣藩士・井道住右衛門の三男として生まれ、同藩士・塚本勝茂の養子となる。大垣藩小隊長として第2次長州征討に出征したが、同藩が新政府側となり戊辰戦争に従軍。1872年、陸軍少尉任官。第6番大隊付を経て、1874年4月、台湾出兵に従軍。熊本鎮台付を経て、1877年2月から10月まで西南戦争に出征した。
歩兵第4連隊大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長等を歴任し、日清戦争には歩兵第6連隊長として出征し、平壌や海城の戦いに参加した。陸軍大学校長、第6師団参謀長などを経て、1897年9月、陸軍少将に進級。義和団の乱及び日露戦争に歩兵第21旅団長として出征。日露戦争では、金州、南山などに転戦。1904年9月、陸軍中将となり、遼陽会戦で負傷した小川又次中将の後任として第4師団長に就任し、奉天会戦を戦った。その後、第9師団長を勤め、1908年12月に休職し、翌年11月20日、後備役[1]となった。
栄典
[編集]- 位階
- 1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[2]
- 1902年(明治35年)12月10日 - 従四位[3]
- 1904年(明治37年)12月16日 - 正四位[4]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従三位[5]
- 1909年(明治42年)12月27日 - 正三位[6]
- 1912年(明治45年)1月16日 - 従二位[7]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[8]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[9]
- 1895年(明治28年)10月18日 - 功四級金鵄勲章、旭日中綬章[10]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、旭日大綬章、明治三十七八年従軍記章[12]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [13]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]- 養嗣子 塚本浩次(陸軍法務官)
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第7925号、明治42年11月22日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5833号「叙任及辞令」1902年12月11日。
- ^ 『官報』第6445号「叙任及辞令」1904年12月22日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第7955号「叙任及辞令」1909年12月28日。
- ^ 『官報』第8570号「叙任及辞令」1912年1月17日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第5531号「叙任及辞令」1901年12月9日。
- ^ 『官報』第5948号「叙任及辞令」1903年5月4日。
参考文献
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 塚本(勝嘉)家初代 1907年 - 1912年 |
次代 塚本浩次 |