堀田正英
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永15年(1638年) |
死没 | 貞享5年7月3日(1688年7月29日) |
改名 | 虎之助(幼名)→正英 |
戒名 | 正英院殿秋巌宗岳大居士 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の日輪寺 |
官位 | 従五位下、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 若年寄、奏者番 |
藩 | 常陸北条藩主 |
氏族 | 堀田氏 |
父母 | 父:堀田正盛、母:あぐり(酒井忠勝の娘) |
兄弟 | 正信、脇坂安政、正俊、正英、南部勝直 |
妻 | 正室:石川正長の娘(松平康信の養女) |
子 |
正親、正矩、正章、 娘(建部昌信室のち黒川盛敬室) |
堀田 正英(ほった まさひで)は、江戸時代前期の大名。常陸北条藩主。江戸幕府若年寄。
生涯
[編集]寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれる。寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となる。慶安4年(1651年)に父が家光に殉死すると、家督は長兄の正信が継いだが、このとき父の遺領から常陸国内で5000石を分与された。
万治2年(1659年)に中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられる。寛文11年(1671年)に書院番頭、延宝4年(1676年)に大番頭と要職を歴任する。延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられ、3000石を加増された。天和元年(1681年)に若年寄に任じられ、天和2年(1682年)2月29日に5000石を加増されて合計1万3000石で大名に列し、常陸北条藩主となった。
貞享2年(1685年)に奏者番に任じられる。貞享5年(1688年)7月3日に死去した。享年51。死後、生前に幕府に提出されていた嘆願状により、遺領の1万3000石のうち、3000石は次男の正矩が、2000石は三男の正章が継いだ。しかし、長男の正親については何も記されていなかったため、残り8000石は幕府により収公され、常陸北条藩は廃藩となった。