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坪内澄定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
坪内澄定 / 前野澄定
時代 戦国時代 / 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 慶長17年3月24日1612年4月24日[1]?
改名 坪内茂定→坪内澄定→前野澄定
別名 通称:右近大夫(右近のみで表記されることもある)、坪内茂定
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉池田輝政
氏族 藤原利仁富樫氏坪内氏
藤原利仁流富樫氏族坪内氏系前野氏
父母 父:坪内勝定、母:前野長義
兄弟 光景[2]、坪内光景室[3]利定澄定定時坪内半兵衛室、守定武山善兵衛
稲葉通勝娘(稲葉良通の姪にあたる)
前野辰定
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坪内澄定(つぼうち すみさだ)は、戦国時代 / 安土桃山時代から江戸時代にかけての武将通称右近大夫[1]。別名:前野澄定[1]

人物

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澄定は、戦国時代ごろに坪内勝定三男に生まれる[1]。初め兄の坪内利定らとともに木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕える[1]織田信長による美濃国攻略の際には、坪内衆と呼ばれる集団の一員として藤吉郎の墨俣一夜城築城に協力した[3]。坪内衆とは尾張国松倉城本拠を置く坪内氏らをはじめとする集団のことで、同じ尾張国の土豪前野家蜂須賀家らと合わせて川並衆とも呼ばれたとされる[3]。だが川並衆についての記述があるのは前野家古文書『武功夜話』のみであり、この『武功夜話』は資料的価値や成立年代に問題が指摘されている。その後も秀吉の家臣として仕え、嫡男の前野辰定が産まれた[1]豊臣政権の誕生による天下統一の後には池田輝政の家臣となり、知行1,500を賜る[1]。慶長17年(1612年)、病死する[1]

氏族

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坪内氏は藤原利仁輔世王女の息子の藤原叙用の後裔の加賀国守護安宅の関の関守の富樫左衛門泰家の子の富樫長泰(庄九郎、藤三郎)の継嗣である富樫親泰(庄次郎光忠)の後裔で澄定の曾祖父である坪内頼定(時定)を始祖とする[1]。坪内頼定は加賀国富樫郷より尾張国に赴き、犬山織田家に仕え、松倉城(現在は城跡を示す碑のみがある)を築城し城主となり始めて正式に坪内氏を称す。

系譜

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脚注

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出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学付属図書館蔵
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』など
  3. ^ a b c 前野家古文書『武功夜話』

前野氏歴代当主

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